ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業 第35期(2015年度)研修派遣生報告書「自立へのはばたき」 第35期研修派遣生(敬称略) 個人研修生 北原新之助(きたはらしんのすけ) 平井 望(ひらいのぞみ) 徐 みづき(すーみづき) スタディ・イン・アメリカ研修生 吉田祐太(よしだゆうた) 東川 結(ひがしかわゆい) ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業実行委員会 委員 (敬称略)(任期:2017年4月1日〜2019年3月31日) 青松利明(あおまつとしあき)筑波大学付属視覚特別支援学校教諭 青柳まゆみ(あおやぎまゆみ)愛知教育大学障害児教育講座准教授、本研修派遣事業第18期研修派遣生 金塚たかし(かなづかたかし)大阪精神障害者就労支援ネットワーク統括所長 尾上浩二(おのうえこうじ)DPI日本会議副議長 小林洋子(こばやしようこ)筑波技術大学障害者高等教育研究支援センター助教 山下幸子(やましたさちこ)淑徳大学 総合福祉学部教授 長瀬 修(ながせおさむ)立命館大学教授 福田暁子(ふくだあきこ)全国盲ろう者協会評議員 国際協力推進委員 世界盲ろう者連盟事務局長 ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業とは   1981年、障がい者の社会への完全参加と平等の実現をめざして国連で決議された「国際障害者年」にちなみ、地域社会のリーダーとなって貢献したいと願う障がいのある若者たちに、海外での研修の機会を提供する「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」がスタートしました。   1982年に10名の研修派遣生を初めてアメリカへ派遣して以来、これまで36年間に延べ496人の研修派遣生を輩出し、帰国後その多くの方々が全国各地で、自立生活運動、政治、学術、教育、スポーツなど様々な分野でリーダーとして活躍されています。   今回の「自立へのはばたき」は、2015年度(第35期)の研修派遣生の研修報告書をまとめさせていただいたものです。個人研修生3名とスタディ・イン・アメリカ研修生2名の5名が、夢と希望を持って世界各地で、何を感じ、何を学んだかをぜひご一読ください。   第35期研修派遣生の皆様、研修をサポートされたスタッフの方々、ご関係者の方々、愛の輪会員の皆様のお力添えに対しまして、改めて感謝申し上げますとともに、今後も「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」に格別のご理解とお力添えを賜りますよう、心からお願い申し上げます。 ※研修報告書の研修生のプロフィールは、研修期間中のものです。 ※障害の「がい」の文字表記について 事業名称等定款に記載されている文言並びに法律用語については従来通りの漢字表記とし、それ以外については「害」を「がい」とひらがな表記とさせていただきます。 ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業の流れ(第35期研修派遣生) 2014年9月1日 募集開始 2014年11月15日 募集締切 2015年 1月 書類選考 2015年 2月21日 面接審査 2015年 3月 研修派遣生決定 2015年 3月27日、28日 事前研修会 2015年 5月19日 壮行会 2015年 7月30日〜12月20日 スタディ・イン・アメリカ研修生派遣 2015年 9月12日〜2016年9月11日 個人研修生 平井 望さん研修派遣 2015年 10月3日〜2016年9月15日 個人研修生 徐 みづきさん研修派遣 2015年 11月20日〜2016年10月1日 個人研修生 北原新之助さん研修派遣 2017年 3月26日 成果発表会 個人研修生 北原 新之助さん 千葉県 視覚障がい 「人の温もり、大きくハグをしてくれるんだ」 研修期間:2015年11月20日〜2016年10月1日 研修国:ドイツ、オーストリア、欧州諸国 研修機関:ニュルンベルク盲学校、ウィーン音楽院、欧州諸国の盲学校・職業訓練施設 研修テーマ:ドイツ、オーストリアにおける音楽療法、福祉支援や教育環境について学ぶ 研修目的:視覚に障がいのある音楽家の就労に向けた学習や、技術の習得、生活環境を見学し、日本における就労支援、発展に反映することを目的とする 研修応募の動機やテーマに関して  今回の海外研修で僕がテーマとしていることが「欧州の視覚障がい者の音楽家の就労について」です。現在の日本において視覚障がい者の音楽家の就労は厳しく、音楽家としての道を諦め、理学療法士や鍼灸師の資格を改めて取り直すといった方が多くいらっしゃいます。これについて「音楽を専門とする視覚障がい者の方々の就労の選択肢を広げたい」と、僕は前々から考えていました。  そこで出会ったのが「音楽療法士」です。以前から音楽療法という分野があるのは知っていましたが、僕がここまで興味を持つきっかけとなったのは、大学生の時に入部をした“ミュージックセラピー研究部”でした。このサークルでは音楽療法を用いて、介護施設や幼稚園、身体障がい者の方々の施設に訪問し、皆さんと一緒に唱歌を歌ったり楽器の演奏を行うボランティア活動をしています。ある時、重度の肢体不自由の方々の施設に訪問した際、寝たきりの利用者の方のベッドサイドで僕たちはいくつか唱歌を歌いました。すると、普段は笑わないその方が笑顔を見せて下さったのです。これには職員の皆さんも驚き喜んで下さいました。この体験を通して、「音楽には目に見えない”力”がある」と、僕はその魅力に落ちたのです。  しかし、現在の日本では音楽療法が広く浸透しているとは言えません。それに対しドイツ・オーストリアでは音楽療法士が国家資格として認められており、理学療法士と同じくらいの信頼を得ています。音楽療法に対する捉え方が日本とどのように違うのか、また音楽療法士だけでなく欧州の視覚障がい者の音楽家の就労について学ぶことで日本において就労の選択肢を広げられる“ヒント”がそこにあるのではないかと思い、このダスキン愛の輪事業に応募させて頂きました。 ビザ・宿舎についてどのようにしたか  海外研修の中でも大きな不安だったのが「住まいの確保」です。“海外に住む”など夢にも思っていなかったことで、住まい探しは右も左も分からない手探りの状態から始まりました。  まずドイツ・ニュルンベルクでは、現地の不動産屋と連絡を取り、旧市街に位置する“WG(Wohngemeinschaft)ヴェーゲー”日本でいうシェアハウスを借りることが出来ました。バスルームとキッチンが共同で約8畳の個室が設けられ、そこでドイツ人とシリア人の男性と約2ヵ月間共同生活をしました。この頃、ドイツはシリアからの難民を積極的に受け入れていた時期で、ルームメイトのシリア人の彼から母国で起きる内戦についての話などを聞き、日本で暮らしていると決して見えてこない、世界で起きている現状を知ることが出来たのです。  オーストリア・ウィーンへ移住しての住まいは初めの少しの期間、日本点字図書館の田中理事長様にご紹介して頂いた、福祉機器メーカー“ケアテック”の社宅に仮住まいさせて頂きました。ウィーンの中心部、シュテファン大聖堂のすぐ近くに本社を置く“ケアテック”は、主に視覚障がい者のための補助具などを販売しています。社長であるディトマーさんは親日家で日本にも何度も訪れていらっしゃるそうで、ディトマーさんも奥様もとてもご親切に、洗濯の仕方やコンロの使い方、電気ポットでのお湯の沸かし方まで本当に丁寧に教えて頂き、いつも優しく暖かく包み込んで下さる素敵なご夫婦でした。  オーストリアではインターネット上に日本人のコミュニティがあります。そこにはウィーンで音楽を学ぶ学生が「〇〇月からアパートが空くので借りる人いませんか?」といった書き込みなどをしており、多くの学生がここで住まいを探したりします。僕もここでウィーン音楽院の姉妹校に通う先輩と出会い、部屋を借りることが出来ました。“海外に暮らす日本人同士で助け合いながら生活をする”、他人と関わることを極力避けるような現代の日本人、忘れかけている人と関わることの大切さ、助け合いの精神をここで感じることができ、今後海外で暮らす方に“繋げていきたい場”であると心に強く思いました。 ビザ  海外での長期滞在に必要不可欠なものが「ビザ」です。パスポートのみの滞在の場合、欧州(シェンゲン協定加盟国)は90日まで滞在可能ですが、オーストリアだけは日本との2国間協定によって特例で180日間、パスポートのみで滞在可能となっています。この期限を越えての滞在の場合、ビザが必要になってきます。  今回、僕にとって初めてのビザ申請。提出書類を一つ一つ集めるのに本当に一苦労でした。  戸籍謄本は一度日本で外務省を通してアポスティーユ“公式の書類ですよ”という証明をもらい、ウィーンに届いたら今度はオーストリア公認の翻訳の方に翻訳をしてもらったり、無犯罪証明書はオーストリアに届くまで約2ヵ月掛かり、犯罪経験などないのは分かっていても警視庁から届いた書類を開封するときはもうドキドキしてしまいます。  その他にもオーストリアの保険加入や辞書と向き合いながらの申請書など、一度じゃ解らず何度も同じ機関に通ったり、言葉が解らず少し怒られ気味に説明を受けたりと、途中挫けそうになりながらもやっと手にしたビザを見たときは、身体の力、心がスッと軽くなり、その嬉しさは何物にも代え難く、ご協力して下さった多くの皆様への感謝の思いが詰まった証でした。 コミュニケーション手段としての言語の習得又は実際のコミュニケーション力など  僕にとって今回の研修で一番大きな課題だったのが「語学」です。お恥ずかしい話、中高の英語の成績はいつも最下位を取るほど苦手な教科でした。それでも「海外で学びたい」という気持ちから、この海外研修派遣の試験に向けて語学学校で英語とドイツ語を改めて基礎から学び、このように研修をさせて頂けることになりました。  しかし、それでも英語もドイツ語も初心者の自分にとって実際に海外で住むとなると“生活をするための語学力の弱さ”に、予想はしていたものの「こんなにも苦しいのか」と、ここだけの話、オーストリアでウィーン音楽院に入学し講義が始まった頃は、全てドイツ語で進められる内容に付いて行けず、音が聴こえて来るくらい心が折れ、涙が込み上げることもありました。  そんな時、ウィーン音楽院の日本人の先生から「焦らずゆっくりで良いの」と言って頂きました。1人焦っていた自分がいて、いっぱいいっぱいの自分がいて。でもこの言葉で気持ちが本当にラクになったのです。「誰かと成績を争う場所ではなく自分と向き合う場所である。自分のペースで少しずつでもゆっくり前へ進もう」と、階段を大きく一つ上がることの出来た瞬間でした。 “HelloTalk”という携帯のアプリケーション“  ドイツ・ニュルンベルクで生活をしていた際に利用していたのが、“HelloTalk”という携帯のアプリケーションです。このアプリは“日本語を学びたい外国人”と“外国語を学びたい日本人”同士で連絡を取り合うことができ、チャットだけでなく、実際に相手と会ってニュルンベルクの街を歩きながらドイツ語を学習したりもしました。語学学校で教科書に向かって学習するのとは違い、買い物や食事を楽しみながらの会話は何倍も楽しく、実用的な言葉を学ぶことが出来るので、外国語を学習されたい方にはお勧めかと思います。  オーストリア・ウィーンでは研修の合間を縫って現地に住む日本人の方に紹介して頂いたオペラ座前にある“Deutsch Akademieドイツアカデミー”という語学学校に通い、ドイツ語の習得に力を入れました。  日本の語学学校にはないフランクな雰囲気に、世界各国の様々な国の人々が集まり、犬の鳴き方ひとつ取っても全く捉え方が違い、それはとても興味深くて面白く貴重な体験でした。  研修先であるドイツ・オーストリアではドイツ語が公用語として使用されていますが、オーストリアは同じドイツ語でもオーストリアの“方言”となるので、言葉や発音が少し変わってきます。例えば、ドイツでの挨拶が“Guten tag”に対しオーストリアでは“Gruess gott”が広く使われ、語尾が“-ig”の単語の発音ではドイツは“イヒ”に対し、オーストリアは“イク”になります。(例:20-zwanzig“ツヴァンツィク”)  このように、初めに研修をさせて頂いたドイツ・ニュルンベルクで覚えたドイツ語もオーストリアへ移ると変わるため、移住したての頃はその違いに戸惑いもあり「国が違えばやっぱり言葉も変わるんだ」と肌で感じることの出来た体験でした。 多くの支援者(研修場所などの確保について)の方とのかかわり方  ドイツ・ニュルンベルクで研修をさせて頂いた“ニュルンベルク盲学校”は、僕の母校である筑波大学附属視覚特別支援学校に留学をしに来ていたドイツ人のズージーさんがここの出身であることを知り、仲介をして頂き、受け入れ許可を頂くことが出来ました。またオーストリアでは、日本点字図書館の田中理事長様に“ウィーン盲学校”の校長先生を紹介して頂き、許可を頂くことが出来たのです。欧州では、日本のように事務を間に挟んで先方と連絡を取るのではなく、直接そこの施設長と連絡を取り許可を頂くという形が一般的で、ドイツ・オーストリア以外に訪れたチェコやイタリア、イギリスの盲学校・職業訓練施設の多くで施設長自らが施設内を案内して下さり、研修生1人に対しても皆さんフレンドリーに接して下さいました。  この日本とは違う“人と人の間に垣根がない”と言いますか、例えば、これは報告書にも書かせて頂いたのですが、ニュルンベルク盲学校での研修の中で感銘を受けたのが「音声学」の授業です。全盲の生徒が声や喉の仕組みについて学習するとき、教員は実際に自身の身体や喉を生徒に触れさせることで、身体の部位の位置や喉の動きなどを伝えており、それはとても解りやすく、その光景はまるでヘレンケラーとサリヴァン先生の関係の様でした。  これは視覚障がい者だけでなくても、普段気付かない発見が出来る本当に素晴らしい授業だと僕は思いました。現在の日本では少し身体に触れるだけでセクハラといった問題に発展してしまい、日本人自体、他人の身体に触れるということを躊躇してしまう面があると思います。しかし視覚障がい者にとっては触れなければ解らないことが多くあります。今後、このような風潮がもう少し緩和することを僕は望んでいます。  そしてもう一つ、イタリアにある視覚障がい者のためのリハビリテーション施設に訪問した際、東京に旅行されたことのある施設長のオルガンティーニさんに「視覚障がい者のための公共施設、設備などについてイタリアと日本の違いを何か感じたことがありましたか?」と質問をしたその答えが、「東京は色んなところに点字があって点字ブロックもきちんと整備されてて、信号機は鳥の声が鳴くでしょ?あれは凄いよね。でも、渋谷駅に行ったとき、交差点を渡ってて誰も僕に当たらないんだよね」と、これを聞いたとき初めは、“視覚障がい者の人が歩いていたらよけてあげるのが常識だから...”と思いましたが、オルガンティーニさんのお話では「イタリアは点字ブロックとかそんなに整備されてない。でも、歩いてるとみんなが触れて助けてくれるんだ。大きくハグしてくれたりもするしね」このお話を聞いて僕はなぜだか涙が込み上げてきたのです。  視覚障がい者のために設備が完璧に整った街、それを求めることが本当に“豊か”な環境と言えるのでしょうか。本当の豊かな街づくり、それはこのオルガンティーニさんのお話の中にあるのだと僕は感じました。  これらの体験を通して、欧州と日本の「人との関わり方」の違いが少し見えてきたと僕は思います。最後にイギリスの“RNIB(英国王立盲人協会)”が理想としていることで『視覚障がい者の人達が、健常者と変わらない権利・変わらない自由・変わらない責任・変わらない生活、これらを享受することができる世界を創ることである』と、この言葉がこの海外研修で学んだ全てを語っていると僕は思いました。  今回の研修では本当に多くの皆様に支えられ多くの皆様が助けて下さったからこそ、こうして日本へ元気に帰国することが出来たのだと思っています。皆様への感謝の気持ちを忘れず、この海外研修で学んだことを次に繋げられるよう、より今後も精進して参りたいと思います。このような貴重な経験をさせて頂き本当にありがとうございました。心より深く御礼申し上げます。 個人研修生 平井 望さん 群馬県 聴覚障がい 「デフスポーツを国民全員に応援してもらえるために貢献したい」 研修期間:2015年9月12日〜2016年9月11日 研修国:ロシア 研修機関:全ロシア聴覚障がい者協会サンクトペテルブルク地方局、ロシアデフスポーツ委員会(モスクワ) 研修テーマ:欧州のデフ(聴覚障害者)スポーツを背景にスポーツマネジメントを学ぶ 研修目的:デフバレーボールとビーチバレーの競技面・運営面のレベル向上を目指すために、世界のデフバレーの頂点にあるといわれるロシアを拠点にし、欧州のデフスポーツ大会の視察を行い、ろう者の特性に応じたスポーツマネジメントの知識を得る 日本におけるデフスポーツの現状  ろう者(=Deaf:デフ)の特性に応じたスポーツマネジメントに求められるものとは何か。なぜ、私はこのスポーツマネジメントを研修テーマにしたのか。  日本のデフスポーツは、下記の厳しい現状を抱えている。 ・合宿や海外遠征による選手の経済的負担が大きい。 ・会社に勤めながら練習している選手がほとんどで練習時間が限られており、練習に専念できる環境も整っていない。 ・デフリンピックの認知度がたった2.8%と低いため、企業やスポンサーによる支援が少ない。 ・パラリンピックと比べて、TV、ネット、新聞などの報道で大いに取り上げられることが少ない。 ・デフリンピックでメダルを獲得しても国からの報酬金はない。(パラリンピックのメダリストは最近もらえるようになった) 研修国にロシアを選んだ理由  上記の課題の改善を目指すために、スポーツ大国であるロシアを研修先に選んだ。例えばアメリカもスポーツ大国なのになぜロシアなのかというと、デフスポーツ界ではアメリカではなくロシアがトップの位置にあるからだ。デフリンピックや世界選手権のメダル獲得数はロシアがトップなのである。また、結果を残すとスポーツ年金という報酬を受けられるという待遇がある。かつてアメリカと対立していた超大国であるソ連だったとはいえ、高い生活水準で高福祉国家の北欧諸国と違い、インフラや生活保障が乏しいイメージを持っていた。そういう意味では「未知の国」ならぬ、未知の研修テーマでもあった。 研修応募のきっかけ  なぜ、私がデフスポーツに関わっているかというと、私自身が選手としてビーチバレーボールの種目でデフリンピックに出場した経験があり、2010年に日本デフバレーボール協会の理事に就任し、デフビーチバレーボール日本代表チームのゼネラルマネージャーを6年やらせていただいている。選手の強化事業だけでなく、大会の運営もしているため、競技者と運営者の両方を知るデフスポーツの当事者であるからだ。ロシアや欧州諸国のデータを収集し、日本のデフスポーツの強化に役立てたいという思いから、10年勤めた会社を辞めて留学しようと決心し、ダスキン海外留学に応募した。 ロシア手話・ロシア語の習得と研修先が決まるまでの流れ  留学前の約2年間、プライベートで、友人のつながりで知り合ったロシア人のろう者にロシア手話を教わった。また、同時にロシア語のマンツーマン語学教室にも通っていたため、ロシアで生活する上でコミュニケーションをとることに自信があった。さらに留学する決心に後押ししてくれたのは、ロシアの友人が福祉関連の仕事をしており、そのつながりで現地の聴覚障がい関連の施設をいくつか紹介してくれたからである。留学の4ヶ月前に研修先の候補地として現地まで下見に行き、全ロシア聴覚障がい者協会の会長と交渉し承諾してくれた。だが、苦労したのは、長期滞在ビザの取得だった。受け入れ先としては、私はあくまで研修生であり、就労者でもなく学生でもないため、どうしてもビザの招待状は作れないと言われた。日本にあるロシアビザセンターに相談した結果、3ヶ月ビジネスビザを2回、365日マルチビザを1回発行するしか方法がなく、2回の一時帰国が必要という条件付きだったが、ようやくロシアに住むことができた。 研修先で行ったこと  全ロシア聴覚障がい者協会を研修の拠点にし、ロシアの第二都市であるサンクトペテルブルクで9ヶ月間過ごした。その間は、サンクトペテルブルクのろう学校の体育の授業やさまざまな競技のチーム練習を見たり、陸上やバレーボールの国内大会を見るために広いロシアの中を飛行機で行ったりしていた。後半の3ヶ月間は、欧州デフスポーツの大会視察(全部で9競技)のために8ヶ国をまわった。3月にベルギーの空港でテロが起こり、その前後にもトルコでテロが多発しており、その影響で欧州に渡る日本人観光客が減少している中での一人行動だったため、緊張感の絶えない欧州視察になった。視察した大会の競技の中で、ハンドボール、オリエンテーリング、サイクリングなど聞き慣れないものを生で初めて見る競技があった。これらの競技は、欧州では聴者もろう者も関係なく、競技人口が多いのが当たり前で、日本ではまだまだマイナーであると痛感した。欧州デフスポーツの活動はとても著しく、アジアと違い、それぞれの競技ごとに欧州選手権が定期的に開催されている。関係者に聞くと、やはり、欧州は地理的に恵まれているという点が大きく、集まりやすいという。世界地図を広げて見てみると、欧州全体の大きさが日本の北海道から沖縄までの長さと同じくらいであることが分かる。欧州内での移動が日本での国内旅行と変わらない感覚であることに納得できる。ただ、それだけで簡単に集まっているのではなく、欧州デフスポーツ委員会の努力のおかげで毎年多くの大会が実施できていることを忘れてはならないと聞いた。 ロシア人のスポーツとの関わり  ロシアでの研修では、ロシアデフスポーツの強さの秘密が、国による支援のほか、民族的要素、練習環境、生活習慣と関係しているということを知ることができた。  ロシア人といえば、白人系スラブ民族が一般的だと思われがちだが、ロシアは広いため、中央アジア系、コーサカス系などさまざまな民族もいる。また、混血で生まれた者は遺伝的な理由で体格に恵まれたり、運動能力が高いことが多いという説がある。(最近の日本スポーツ界でも、プロ野球、陸上、バレーなどで大活躍しているアフリカ系ハーフの選手が増えてきているケースと似ている)遊牧民や山岳地帯などの住居環境によって、無意識のうちに身体能力を高めていることもある。  ロシア人は、都会と田舎に関係なく、家族ぐるみでベリー類やキノコ狩りに森へ出かけることが多い。週末に「ダーチャ」と呼ばれる別荘に行き、畑を耕すのが一般的なのである。インターネットやスマホが普及した今でも、自然と身体を動かす生活を送っている人が多い。また、「歩くこと」に対する感覚も日本人とはかなり違う。例えば、目当てのレストランがあるから最寄りの駅から歩いて行こうという話をすると、日本人であれば長くても15〜20分歩いたら十分だと思うが、ロシア人は30〜40分でも平気なのである。それほど長時間歩くことに抵抗がないのだ。  ロシアの冬はとても長いため、暖房のついた室内はどこでも常識であり、スポーツ施設でもすべて暖房設備が整っている。半袖でもすぐに暑くなるほどなので、厳寒期でものびのびと練習ができる。それに比べて、日本の冬の体育館(大型施設以外)は、寒すぎてケガをしやすく、パフォーマンス性とモチベーションが低下してしまうところが難点である。  前述した通り、ロシア人の生活とスポーツのつながりが深く、さらに国の強大な支援も加わり、ロシアならではの強さを最大限に活かせられているというのである。だからといって、日本のデフスポーツもまったくロシアと同じようにすればいいというわけではなく、民族性、気候や生活習慣も違うので、日本ならではのやり方を見出す必要がある。例えば、日本人は体格の小ささで不利な立場にあったが、工夫して頭脳を武器にしたり、真面目に黙々と練習に励むという国民性の利点を生かしたことでメダルを獲ることができたというのと同じように、スポーツマネジメントの観点でも日本人の良さを最大限に活かせるようなものを見つけたらと思っている。 ロシアデフスポーツ委員会での研修  私が抱えている研修テーマを見ると、本来なら、全ロシア聴覚障がい者協会ではなく、ロシアデフスポーツ委員会で研修を行うのが最も合理的なのだが、ロシアデフスポーツ委員会とのつながりがなく、全ロシア聴覚障がい者協会で研修を受けるしか他に方法がなかった。渡航直後に、全ロシア聴覚障がい者協会を通してロシアデフスポーツ委員会に依頼することは可能だろうと思い相談したが、簡単にお願いできる相手ではないと言われ、長い間躊躇してしまっていた。だが、運が私に味方してくれたかのように、欧州の大会視察の際にドイツで偶然、ロシアデフスポーツ委員会の会長であるロマンツォフ氏と知り合い、私の研修に協力するとおっしゃってくださった。この時点ですでに研修の終盤にさしかかっていたため、わずか2週間の研修となったが、大変内容の濃い研修になった。  2008年にロシアデフスポーツ委員会が設立できるまで、ロシア社会は他国と比べてろう者に対する理解がとても少なく、さらにソ連崩壊の混乱などで困難も重なり、自分の生活だけで精一杯な中で、国が認めてくれるまで血のにじむような努力をしてきたという。その苦労があったからこそ、選手も指導者も運営者もすべての人が結果を残せば報酬がもらえるような体制にまで成長したわけである。  ロシアデフスポーツの強さの秘密について分かったことをまとめると、 ・ロシア人の昔からの生活習慣とスポーツの強いつながりがある。 ・スポーツ施設の充実(特に、冬のセントラルヒーティングが整っている) ・スポーツ省による報酬制度、練習環境や大会開催、ろう者の人権に関する法律の改善などは、多くのろう者の努力によって成り立っているものである。 ・多くのロシア人のろう者が国際デフスポーツ委員会(ICSD)、欧州デフスポーツ委員会(EDSO)の主要人物として活躍しているため、世界中のデフスポーツの情報に精通している。 最後に  オリンピックを筆頭に、パラリンピックやデフリンピックを含めたあらゆるスポーツを政治と同レベルで重要な存在としてみられるロシアでも、多くのろう者による何十年ものの努力によって、ロシアのデフスポーツが世界中のろう者から羨望されるほどにまで発展されたということ。このことによって、日本のデフスポーツの将来にも可能性が十分あるということが分かった。要するに、ろう者一人ひとりの力が必要で、動くか動かないかの話であると思っている。ロシアデフスポーツの核を突きつめ、さらに、ロシアスポーツ省を訪問することもできたので、良い形で1年の研修を終えることができた。  ダスキン愛の輪をはじめ、多くの方々のご協力があってこそ、やりたいことを実現できたので、心から感謝の意を表したい。その恩返しとしても、今後の日本のデフスポーツの強化につなげられるように努めていきたい。 ■視察したロシア国内の大会名 全ロシアデフ室内陸上選手権(サランスク) 2016年2月11日〜14日 全ロシアアルペンスノーボード選手権(St.ペテルブルク) 2016年3月13日〜16日 全ロシアデフバレーボール選手権(コロムナ) 2016年4月7日〜11日 全ロシアデフビーチバレーボール選手権(アナパ) 2016年6月16日〜19日 ■視察した欧州の大会名 第11回デフハンドボール欧州選手権(ドイツ・ベルリン) 2016年5月15日〜22日 第1回ジュニアデフバレーボール欧州選手権(ポーランド・ウッチ) 2016年5月23日〜28日 第13回デフテニス欧州選手権(スロベニア・ポルトロス) 2016年6月4日〜11日 第3回デフサッカーワールドカップ(イタリア・サレルノ) 2016年6月20日〜26日 第11回デフバスケットボール欧州選手権(ギリシャ・テッサロニキ) 2016年6月26日〜7月2日 第2回デフビーチバレーボール世界選手権(トルコ・サムスン) 2016年7月14日〜25日 第8回デフオリエンテーリング欧州選手権(チェコ・オロモウツ) 2016年7月26日〜31日 第1回デフジュニアサッカー欧州選手権(ポーランド・ヴロツワフ) 2016年8月4日〜13日 第8回デフサイクリング欧州選手権(ベルギー・ブルージュ) 2016年8月14日〜19日 個人研修生 徐 みづきさん 東京都 肢体不自由 「障がい者一人ひとりの能力を活かした雇用を実現したい!」 研修期間:2015年10月3日〜2016年9月15日 研修国:アメリカ 研修機関:シラキュース大学 Burton Blatt Instituto 研修テーマ:障がい者の能力を職場で最大限に発揮させるには 研修目的:アメリカの障がい者雇用や関連する法律・政策、また自立生活・教育などの実態について調べ、日本の社旗福祉的障がい者雇用から一人ひとりの能力を生かした雇用へ変化させたい はじめに  私は2歳4ヶ月から足に障がいがあり車イスで生活しています。小学生から地域の公立学校で一般教育を受け、クラスメイトは全員健常者という環境で育ちました。自分が障がい者であることを自覚し始めたのは22歳の時です。アメリカの大学に在学中、就職活動を始めたのですが「障がい者採用は行なっておりません」という返信ばかりが私の元に届きました。それまでも歩けないという事実は理解していましたが、ただそれだけで応募できる会社・職種までもが制限されることに違和感を覚えました。実際に面接でも多くの会社が私の持っている知識・スキルより、私の障がいにフォーカスしていると感じました。このような経験は私だけのことではありません。仕事やボランティア活動で出会った障がい者たちか らも就労への問題や困難の声が聞こえてきました。雇用主がもう少し障がい者の“能力”を見てくれたら、社会で活躍できる障がい者はもっと増えるはず。障がい者雇用について研究したいと考えていたとき、ダスキン愛の輪基金のプログラムと出会いました。 出発までの準備  研修国のアメリカは大学時代を過ごした場所。そのため車イスでの生活のしやすさは自分自身で経験していました。外で障がい者を見かけることもアメリカではごく普通で、スーパーの店頭など“見える”ところで働く障がい者もいます。このような環境は今の日本にはまだないものであり、アメリカに行けば何かヒントが得られるのでは?と考えました。研修先は当初、企業を検討していましたがビザの関係で断念することに。障がい者関連のリサーチを行なっている大学研究所にシフトして10箇所ほどコンタクトをするなかで、ニューヨーク州にあるシラキュース大学Burton Blatt Institute(以下、BBI)が快く受け入れを承諾してくださいました。BBIでは訪問研究員として在籍することになり、J1ビザを取得。居住場所はBBIの協力のもと大学からバスで30分ほどのところにあるアパートを契約しました。 インタビューで情報収集  研修期間およそ1年のあいだに10州20都市を訪問し、100名以上の方々をインタビューさせていただきました。訪問場所は企業・政府機関・障がい者団体・研究機関など。各地で出会った人たちからアメリカの障がい者雇用の変化、現在の取り組みや課題などについて伺いました。そこで気づいたのは雇用環境だけが日本と違うのではないということです。 アメリカの教育環境  就職の前にある教育の段階から健常者と障がい者に大きな差があると気づいた私は、アメリカでの教育環境を知りたいと考えました。ニューヨーク州シラキュースにあるプリスクールと公立小学校、またワシントン州シアトルの私立学校(プリスクール〜高校)を訪問して、その違いに驚きました。  日本では、今日でも半数以上の障がい者が特別支援学校・特別支援学級で学んでいますが、アメリカでは障がいのある生徒にも「無償での適切な公共教育」が与えられる事が約束されています。例えば、Least Restrictive Environment (最小制約環境)という考え方は、障がいのある生徒に対して、障がいのない生徒と限りなく同じ学習環境をつくり、そこで必要なサポートも提供するというもの。つまり障がいの有無にかかわらず、みんな一緒に一般クラスでの学ぶ機会が与えられているのです。  障がいのある生徒はIEP(Individual Education Plan)という個別の教育プランをもっており、その内容にそって学習プランと必要なトレーニング内容が決められています。校内には理学療法士・作業療法士・言語聴覚士が在籍しており、IEPを持っている生徒は通常のクラスを30分など短時間抜けて校内の別室でトレーニングを受けられる仕組みになっています。学校まで通学ができない重度障がい者には、理学療法士・作業療法士・言語聴覚士が自宅まで出向きトレーニングを行います。この費用はすべて学区が負担し、個人の支払いはありません。また学校内の設備はADA(Americans with Disabilities Act, 障がいを持つアメリカ人法)により、他の公共建物と同様、スロープ・エレベーター・トイレなどのアクセシビリティが整っています。  アメリカでは高校までが義務教育です。大学へ進学した場合、それまでのようにIEPでのサポートを受けるのではなく、各大学にある障がい者学生をサポートする専用オフィスがサポートをします。入学と同時に自動的に支援を受けられるのではなく、障がい者学生が自分でオフィスに出向き、必要なサポートをリクエストする流れです。 サポート例としては、  ●手話通訳士の手配  ●スクリーンリーダーの提供  ●別フォーマットによるテキストの提供  ●試験時間の延長  ●住居(寮)設備対応 などが挙げられます。  建物の設備面はADAによりアクセシビリティは基本的に整っていますが、1990年以前(ADA施行前)に建てられた古い建物は、ADAの基準に批准していなくても良いことになっています。歴史的な建物だと改装が難しく時間が掛かることもあります。その場合、この専用オフィスに相談することでクラスの場所を変更してもらうなど対応をしてもらえます。 権利を守る法律の力  訴訟大国アメリカとよく言われますが、そのくらい法律の持っている力は大きいです。すでに記載したADAもそうですが、障がい者を守る法律が存在することで、日常生活から教育や雇用などで障がい者の平等な権利が守られています。  例えば、法的に障がい者をサポートする団体が全米にあり、各州の政府と連携して活動を行っています。私が訪問したワシントン州シアトルにあるDisability Rights Washingtonや、フロリダ州マイアミにあるDisability Indepedence Group, Inc.には弁護士が在籍し、無償で障がい者差別の訴訟問題を請け負っています。またADAを地域社会や雇用主などより多くの人に理解してもらい、活用してもらうために、全米に10のADAセンターが設置されています。私はその中で、カリフォルニア州やアリゾナ州など西海岸をカバーしているPacific ADA Centerと、ジョージア州やフロリダ州など東海岸の南部をカバーするSoutheast ADA Centerを訪問しました。個人のADAに関する質問対応や企業向けの講習会、店舗のアクセシビリティアドバイスなどADAが実社会できちんと使われるよう様々な取り組みをしています。 障がい者を支援する団体  アメリカの障がい者の生活が大きく変化したのは1960年代、アメリカのバークレーで起こった自立生活運動からです。そこからアメリカの各都市にCenter for Independent Living(自立生活センター、以下CIL)ができました。CILのボードメンバーとスタッフは半数以上が障がいのある当事者で構成されており、障がい者の自立生活に関するあらゆるサポートを無償で行っています。私はサンフランシスコ、シアトル、ボストン、バーミングハム、マイアミのCILにて取材をしました。特に興味深かったのは、ボストンのCILで実施されている障がい者学生向けのインターンシップ。ローカルの企業やNPOなどと提携して障がい者学生に働く経験を提供します。日本と同じく、アメリカでも障がい者は社会に出る前にバイトなどで働く経験を得ることが困難です。経験・能力を重視されるアメリカの雇用環境において、この状況から健常者と障がい者の差がうまれてしまいます。そこでボストンのCILでは、障がい者と雇用主(インターンシップ先)の間にCILが入りアレンジすることで、障がい者自身が挑戦したい職場で働く経験を得ることができます。また、CILのスタッフは半数以上が障がいのある当事者なので、彼らだからこそ知っている就職に関する知識も教えることができます。また高校や大学卒業後の就職をサポートする団体も各地に存在します。私が拠点にしていたニューヨーク州シラキュースには、Onondaga Community Living, Inc.というニューヨーク州認可の非営利団体があります。ここでは、履歴書の作成サポート・面接練習・仕事の紹介・採用後のフォローアップ面談など、障がい者の就労サポートを無償で行っています。 雇用の現場 ~競争雇用~  アメリカには障がい者の法定雇用率はありません。(政府と契約のある企業は7%という“努力目標”を掲げています。)そのため訪問した多くの企業が、「障がいの有無にかかわらず、その仕事ができるかどうかが一番重要」と言っていました。アメリカと日本の障がい者雇用で大きく違うのは2点。障がいの公開と合理的配慮です。 (1) 障がいの公開  アメリカには障がい者手帳制度がなく、就労に関しても「障がい者採用枠」という分け方もありません。条件が合う人であれば、どんな人でも募集されているポジションに応募することができます。その代わり、1つ1つのポジションに細かい条件(学歴・経験・スキルなど)があり、それに当てはまっていなければなりません。障がい者も同じように条件に合っていれば応募できます。また障がいの公開は任意であり、雇用主も特定の人にだけ心身の状態について質問することは違法となっています。採用後も障がいの公開は任意です。 (2) 合理的配慮  アメリカでは就労時に必要となる合理的配慮は採用後に話し合いがされます。私が訪問した企業では、合理的配慮を管理する専任の部門が存在して予算もその部門で管理していました。配慮が受けられる対象は障がい者に限らず、全従業員がリクエスト可能です。それぞれの障がい者にとって何が合理的で何が特別なのか、正しく判断できる人は多くないでしょう。だからこそ専任の部門をつくり、一ヵ所で判断&予算管理できる仕組みがうまく機能すると感じました。また配慮の対象を全従業員にすることで、みんなが働きやすい労働環境になり仕事のパフォーマンスや会社へのロイヤリティも上げることができるのではと考えます。  ただ全ての障がい者がアメリカの競争雇用を勝ち抜き、キャリアアップできるわけではありません。通常の採用プロセスでは、本来持っている能力をうまく見せられない障がい者もいます。そこで、マイクロソフトやスターバックスは、障がい者の能力を見極めるためにインターンシップと絡めた採用方法を実施しています。例えば自閉症者の人は対人コミュニケーションは苦手ですが、パソコンなどの操作が得意な人、また集中力が高い人も多いです。インターン生として働きながら、その得意な部分を見せることで採用につなげるというもの。これは日本の、“障がい者だから”別採用で審査するという考えではなく、“その仕事ができるかどうかを見極めるため”に行っている別採用。障がい者に対する目線がまったく違うことがわかります。  訪問した各社では、プロフェッショナルとして働く車イスユーザー(四肢欠損・ALS・脳性麻痺など)・視覚障がい者・聴覚障がい者・小人症などの様々な障がい者にお話も伺いました。彼らはそれぞれの職種で障がいをアセットとして活用し、同僚へも新しい気づきを与えていました。私が訪問した企業はリソースが豊富な大手企業ばかりではありますが、そのリソースをきちんと活用し障がい者の能力を職場で最大限に生かしていることは素晴らしいと感じました。 雇用の現場 ~補助付き雇用~  アメリカには一般就労の他にSupported Employmentという補助付きの障がい者雇用もあります。この就労方法を利用するのは特に自力での就職活動が難しい重度障がい者が多いそうです。Supported Employmentは「障がい者はすでに働ける能力があるが、その能力を活かせる適切な就職先を探すサポートが必要」という考えのもと、障がい者と雇用主の間に各州にあるリハビリテーション局(Vocational Rehabilitation = 以下VR)が入って就労の支援をしています。  私はジョージア州アトランタにあるSupported Employmentのエージェント、Frazer Centerを訪問しました。Frazer Centerにはジョージア州のVR職員が在籍しており、就職に必要なソフトスキル・仕事の紹介・採用後のフォローアップなどを行っています。この雇用方法を使っても、健常者が大多数のいわゆる一般就労の環境で仕事をすることができます。しかし課題として、政府からの手当(Medicaid, Medicareなど)をもらえる権利を保持するために敢えて働く時間数を制限している障がい者も多い現状があります。 最後に  この研究で改めて感じたこと、それは「障がい者は1つのグループではなく1人ひとり違う」ということ。障がい者だから採用する/しないを決めるのではなく、その人の持っている能力・経験もしっかり見た上で採用がなされ、障がい者と雇用主の両方にベネフィットのある雇用関係が生まれるべきと考えます。今後はアメリカで得た情報とネットワークを活かしながら、その実現に向けて前進していきたいと考えています。最後に、取材にご協力いただいた皆様、様々な形でサポートしてくださった皆様、ダスキン愛の輪基金事務局・関係者の皆様に心から御礼申し上げます。 スタディ・イン・アメリカ研修生 吉田 祐太さん 茨城県 聴覚障がい 「ボストンで学んだろう文化や教育方法」 研修期間:2015年7月30日〜12月20日 研修国:アメリカ マサチューセッツ州 研修機関: マサチューセッツ州立大学ボストン校(UMB) グローバルインクルージョン・社会開発学部 地域インクルージョン研究所(ICI)、関係機関 学びたいこと: 自己同一性が強いといわれるアメリカの聴覚障がい者の学習方法・歴史・文化・生活について学ぶ 研修内容: @英語集中研修(基本英語力を磨く) A障がい学習文化としての障がい、障がいに関する提言、政策、施策実行、国際的観点、および、障がい者への支援及びサポートの改革の概要を学ぶ。 B障がい者リーダーシップ個人研修 個人の関心、プロジェクトのテーマ、ニーズ別に地域での研修 C定期的なグループ指導セミナー 研修先における状況を協議し、体験を振返る。体験と研修を障がいおよびインクルージョンに連動させる。 自分探しの旅  ボストンでの経験は自分探しの旅となりました。私は幼少時代から聴覚障がい者のコミュニティで育ってきました。まわりは同じ障がいを持った人ばかりだったので自分の障がいについて深く考えたことがありませんでした。大学2年の夏、インターンシップをしたとき、コミュニケーションに関する様々な困難を経験し、初めて自分は他人と違うことを認識し、自分の障がいについて深く考えました。この経験からアメリカで自分の文化(ろう文化)、様々な文化や教育方法について学びたいと思うようになりました。  長期間アメリカに滞在するためにはビザの取得が必要です。2015年6月下旬までに東京にあるアメリカ大使館で済ませました。又、マサチューセッツ州立大学にいるスタッフの方とメールでやり取りをしながらホームスティ先を決めたりもしました。アメリカ手話に関しては筑波技術大学で開講されているASLの講義を受講しました。ただ、時間をあまり作れず基本的な部分しか理解できていないまま渡米することになりました。  ボストンではホームスティをすることになりました。うまく溶け込めるか不安だったけど暖かく迎えてくれたのですぐ打ち解けることができました。現地ではお風呂に入らずシャワーだけで済ませるのが普通らしくこれには少しカルチャーショックを受けました。ボストンに来て最初の一週間はよく電車を間違えたり迷子になったりしていました。外の景色がわからずバスを間違えたことに気づかないまま終点まで行ってしまったこともありました。失敗を繰り返すことで少しずつできることも増えてきました。 マサチューセッツ州立大学  マサチューセッツ州立大学ではセミナーに参加したりESLプログラム(留学生向けの英語力強化プログラム)を受講したりしました。講義ではCART(パソコンティク)をつけてもらいました。最初は英語の速さについていけなかったけどすぐ慣れました。  現地にはボストンスペシャルニーズと呼ばれる日本人のグループがあり、1ヵ月に1回くらいBBQやパーティを開いていたので参加させてもらっていました。研究者や医者、ハーバード大学の日本人学生、自閉症の学生のための学校の先生など様々な人がいたのでいろいろな話を聞くことができました。モチベーションもかなり上がりました。  日本であまりASLの学習をしていなかったので最初は現地の聴覚障がい者や通訳者の話内容が理解できず「what does it mean?」というフレーズを繰り返していました。このままではいけないと思い毎週土曜日開催されているASLサークルに参加し、新しい単語を教えてもらうたびにメモをして家で復習したりしていました。結果1ヵ月くらいである程度コミュニケーションがとれるようになり友達も増えました。 非利益組織でボランティア  私はDEAF,Inc.と呼ばれる非利益組織でボランティアをしました。DEAF,Inc.はろう者、盲ろう者、難聴者のために1977年にろう者のリーダー達によって設立され運営されています。この組織は障がいのある人々それぞれの目標を達成させたりコミュニケーションアクセスやコミュニティの意識を増やしたりするために様々なサービスやプログラムを提供しています。移民や十分な教育を受けることができなかった学生の自立を促すために英語やASLクラスも開講しています。英語の講義のアシスタントをしたりDEAF,Inc.のサービスがどのように影響を与えたのかインタビューしソーシャルメディアを使ってサービス利用者の話をシェアしたりしました。DEAF,Inc.でのボランティアの経験を通して自分自身のことをろうであると表現するようになりました。アイデンティティーやろう文化について様々なことを学ぶこともできました。  ボストンでの経験を通じてろう者、健聴者の違いはコミュニケーション方法であることを学びました。聴覚障がい者のアイデンティティーは3つのグループに分けられます。“deaf”(小文字のd)は医学的に聞こえない意味を含みます。そして政治的、社会的活動家という意味を持っていないアイデンティティーです。一方“Deaf”(大文字のD)は文化、言語、可能性に焦点を当てています。最後に“Hard of Hearing”は残存聴力を持つ人々を示します。“Hearing impairment”はマイナスのイメージを含んでおり、この言葉を使って誰かがを説明するのは望ましくないとされています。DEAF,Inc.から勧められた本にも“Deaf”は文化、言語、可能性に焦点を当てていることを強調していました。アメリカの“Deaf”はAmerican Sign Language(ASL)を重要視しています。Signing Exact Englis(SEE)と呼ばれる手話も存在するが、デフコミュニティに受け入れられていません。“Deaf”はSEEがASLを取り除き適切な英語に置き換えることによって“deaf”を健聴者の世界に送り込むために作られたと考えているからです。  ボストンでdeaf, Deaf-blind, Hard of Hearingの人々にアイデンティティーや経験について聞きました。たくさんのDeafであると主張した人々はDeafコミュニティに受け入れられていると感じた経験がアイデンティティーを確立するためのきっかけになっていると話してくれました。おそらく健聴者の世界での拒絶や孤独といった経験がこのプロセスをより顕著にしていると考えられます。又、彼らはアイデンティティーを見つけるための悩みを話してくれました。Deaf,Inc.で働いている一人の女性はDeafであると主張してきました。彼女はHard of Hearingとして生まれ、家族とは口話でコミュニケーションをとっています。はじめてDeafキャンプに参加した時、ほかのDeafの人々の経験を学ぶことで彼女は彼女自身のことをDeafであると主張し始めました。彼女はDeafコミュニティで働いている間はDeafであると主張しているにもかかわらず家族と一緒にいる間はHard of Hearingとしてのアイデンティティーが強いそうです。これからも彼女は自身のことをDeafとして見ていることと残存張力をもっていることの間でアイデンティティーを模索し続けるだろうと述べてくれました。DEAF,Inc.のリーダー、シャーロン・アップルゲートが個人は人生における様々な経験や交渉によってアイデンティティーを確立すると教えてくれました。 日本でDeaf文化の認識を高める活動を  以前私は私自身のことをdeaf(小文字のd)として見ていました。ボストンの経験を通じて私はDeafであることを強く主張するようになりました。アイデンティティーを見つけることはとても難しいことだと思っています。又、日本でどれくらいの人々がアイデンティティーを見つけられずにいるだろうか。日本のほとんどのdeafの学校ではSEEに似ている手話を使っています。その上Deaf文化や歴史を学ぶ機会がとても少ないです。結果としてアイデンティティーや文化を学ぶことができなかった学生が健聴者の世界で彼ら自身のことを主張できなくなります。日本ではDeaf文化の認識を高める必要があると考えられます。これからはDeaf文化の認識を高めるためにコミュニティサポートグループに参加してボストンでの経験を様々な人々とシェアしていきたいです。 スタディ・イン・アメリカ研修生 東川 結さん 福岡県 肢体不自由 「当事者である私だからこそ、アートを通してできること」 研修期間:2015年7月30日〜12月20日 研修国:アメリカ マサチューセッツ州 研修機関: マサチューセッツ州立大学ボストン校(UMB) グローバルインクルージョン・社会開発学部 地域インクルージョン研究所(ICI)、関係機関 学びたいこと:アートとその色彩が障がい者の体・脳にどのような効果をもたらすのかを学びたい 研修内容: @英語集中研修(基本英語力を磨く) A障がい学習文化としての障がい、障がいに関する提言、政策、施策実行、国際的観点、および、障がい者への支援及びサポートの改革の概要を学ぶ。 B障がい者リーダーシップ個人研修 個人の関心、プロジェクトのテーマ、ニーズ別に地域での研修 C定期的なグループ指導セミナー 研修先における状況を協議し、体験を振返る。体験と研修を障がいおよびインクルージョンに連動させる。 はじめに  2015年7月30日から12月21日の期間、アメリカのボストンで「アートとその色彩が障がい者の心と体・脳にどのような影響を与えるのか」をテーマに研修を行った。日本よりも芸術を身近に感じることのできるボストンで、人種や民族、能力の違いを超えて用いることのできるアートを模索するうちに、自分の在り方や将来の働き方について見つめることができた。 インターンシップ先での気づき  9月からHenderson Inclusion Schoolでインターンシップを行った。そこは、幼稚部から高等部を受け持つ、インクルーシブ教育で有名な学校だ。インクルーシブ教育とは、障がいの有無や人種関係なく、全ての子供達が適切に学ぶことのできる教育を指す。実際に学校には各クラスに2、3人の特別な支援が必要な生徒がみられ、各クラスに特別な支援に対応する教師と一般の教師が二人一組で配置されていた。二人の教師の役割は分かれているようだが、通常はすべての生徒の相手をしていた。加えて、教師の中にも障がいのある人を積極的に取り入れており、日常生活の中で自然と障がい者との関わり方を学習させる役割を担っていた。当事者として、周りの同じ境遇にある人の模範になることを「ロールモデル」という。この役割を様々な障がいや悩みの各分野において育成できれば、この学校の教員のように発信者として働くことができるのではないかと気づいた。  この学校はインクルーシブ教育を取り入れている学校である他に、全ての能力の利用者に対し、アートを通して統合教育の促進を目的とする非営利組織のVSA Massachusettsのプロジェクト、Cool Schools Programに参加している学校のうちの1つでもある。このプログラムは担任教師と芸術の講師がクラスに関わり、芸術を通して子供たちに学習をさせるというものだ。多種多様なアート活動により、生徒たちの学習能力やインクルーシブな環境づくりを促進している。  このような日本ではあまり取り入れられていない教育環境のなかで、私は、美術の先生の補佐役としてアートの授業に関わった。障がいのある生徒が健常の生徒と一緒に授業を受けると、「できないこと」に注目しがちだが、「できること」に目を向けて、インクルーシブ教育の実現を図っているのだと実感。具体的な例として、多数の生徒は工作に薄い色紙を使うが、目が見えない生徒に対しては厚紙で工作を楽しんでもらう。視覚的に色や形を認知できなくても、感覚で周りの生徒が楽しんでいる工作を同じように経験することが出来るということ。教師は、1つの方法での楽しみ方だけではなく、様々な能力や状態に合わせた選択肢を用意していた。選択肢を用意して、ほとんどの生徒が「できない」という結果にならないように心がけるという点は一番勉強になった。この経験を通して、アートとその色彩の与える影響を理解するだけではなく、それを披露する機会や場所、アートの効果を最大限に引き出すためのアクティビティや空間づくり等もまた学ぶ必要があると考えるようになり、多様なアートを用いての生徒へのアプローチの仕方を学ぶことができた。 研修を通しての変化  研修を通して自分の中で一番変わったのは、行動力と自分の在り方に対する考え方だ。私はこの研修に参加するまで、公共交通機関を自分ひとりで乗りこなしたことがなかった。私の行動領域はほとんど家の中であり、研修をきっかけに行動範囲を広げたいと切に願っていた。何よりも周りの目や意見を気にし、保守的であることに甘えていたと痛感する毎日をボストンでは積み重ねていった。日本よりも緩和された異国のルールの上で、誰よりも頼りになるのは自分だと、今まで信じることができず嫌いだった自分を、信頼して自信に繋げることが出来た。「こんな自分にできる事は何か」より「自分だからこそできる事は何か」と前向きに考えられるようになったことには自分も驚いている。もちろん障がいあっての自分だが、障がいを前出しにしなくても自分をアピールして良いのだと結論が出たときから、髪色が分かりやすく変わったほどである。  行動範囲が広がるとともに、人間関係も広がっていった。研修前と違うことは、自分で切り開いた人間関係だということだ。時には厳しく、そして温かく私を支え、彼らと交流することが刺激や励みになった。これからも交流を続けていきたい。 今後の取り組みと想い  私は今後、勿論就職を考えている。就職に関して沢山の提案を頂いているし、金銭的な面も考えると一般企業に正社員として働くことが安定しているのかもしれない。しかしながら、身体障がいのある私だからこそ身をもって伝えられることがあると思っている。ボストンで目の当たりにしたような、世間一般の型にはまらず輝いている当事者に私もなりたい。そして、私のような生き方・働き方もできるということを提唱していく存在を目指して、前進していきたい。 公益財団法人ダスキン愛の輪基金 〒564-0063 大阪府吹田市江坂町3-26-13 TEL.06(6821)5270 FAX.06(6821)5271 http://www.ainowa.jp