ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業 第35期(2016年度)研修派遣生報告書「自立へのはばたき」 第36期研修派遣生(敬称略) 個人研修生 橋菜美子(たかはしなみこ) 重田竜佳(しげたたつよし) 大藪光俊(おおやぶみつとし) ジュニアリーダー育成グループ研修(視覚障がい者ユースグループプログラム) 青木悠弥(あおきゆうや) 今岡 称(いまおかかなえ) 菅田利佳(すがたりか) 横山政輝(よこやままさき) ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業実行委員会 委員 (敬称略)(任期:2017年4月1日〜2019年3月31日) 青松利明(あおまつとしあき)筑波大学付属視覚特別支援学校教諭 青柳まゆみ(あおやぎまゆみ)愛知教育大学障害児教育講座准教授、本研修派遣事業第18期研修派遣生 金塚たかし(かなづかたかし)大阪精神障害者就労支援ネットワーク統括所長 尾上浩二(おのうえこうじ)DPI日本会議副議長 小林洋子(こばやしようこ)筑波技術大学障害者高等教育研究支援センター助教 山下幸子(やましたさちこ)淑徳大学 総合福祉学部教授 長瀬 修(ながせおさむ)立命館大学教授 福田暁子(ふくだあきこ)全国盲ろう者協会評議員 国際協力推進委員 世界盲ろう者連盟事務局長 ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業とは   1981年、障がい者の社会への完全参加と平等の実現をめざして国連で決議された「国際障害者年」にちなみ、地域社会のリーダーとなって貢献したいと願う障がいのある若者たちに、海外での研修の機会を提供する「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」がスタートしました。   1982年に10名の研修派遣生を初めてアメリカへ派遣して以来、これまで37年間に延べ504人の研修派遣生を輩出し、帰国後その多くの方々が全国各地で、自立生活運動、政治、学術、教育、スポーツなど様々な分野でリーダーとして活躍されています。   今回の「自立へのはばたき」は、2016年度(第36期)の研修派遣生の研修報告書をまとめさせていただいたものです。個人研修生3名とジュニアリーダー育成グループ研修生4名の7名が、夢と希望を持って世界各地で、何を感じ、何を学んだかをぜひご一読ください。   第36期研修派遣生の皆様、研修をサポートされたスタッフの方々、ご関係者の方々、愛の輪会員の皆様のお力添えに対しまして、改めて感謝申し上げますとともに、今後も「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」に格別のご理解とお力添えを賜りますよう、心からお願い申し上げます。 ※研修報告書の研修生のプロフィールは、研修期間中のものです。 ※障害の「がい」の文字表記について 事業名称等定款に記載されている文言並びに法律用語については従来通りの漢字表記とし、それ以外については「害」を「がい」とひらがな表記とさせていただきます。 ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業の流れ(第36期研修派遣生) 2015年7月1日 募集開始 2015年11月15日 募集締切 2016年 1月 書類選考 2016年 2月21日 面接審査 2016年 3月 研修派遣生決定 2016年 3月26日、27日 事前研修会 2016年 5月19日 壮行会 2016年 8月3日〜8月12日 ジュニアリーダー育成グループ研修生派遣 2017年 1月6日〜12月21日 個人研修生 高橋奈美子さん研修派遣 2017年 1月7日〜12月28日    個人研修生 重田竜佳さん研修派遣 2017年 4月27日〜9月8日     個人研修生 大藪光俊さん研修派遣 2018年 3月24日 成果発表会 個人研修生 橋 菜美子さん 山形県 肢体不自由 研修期間:2017年1月6日?12月21日 研修国:デンマーク 研修機関:エグモントホイスコーレン 研修テーマ:障がい者の生き方の更なる多様化に向けた、社会的支援策について。 研修目的:障がい者の生きやすさを追求した同国の福祉制度、介護の在り方、ユニバーサルデザインの普及について学ぶ。また、世界中から同校に集まる障がい者に、障がいと共に前向きに生きるための考え方や現在の生活実態についての取材を行う。 タイトル 「障がいをもちながら自分らしく生きるには 〜デンマークで学んだ“手のつなぎ方”について〜」 はじめに  2017年の1年間、デンマークのエグモントホイスコーレン校に留学しました。進行性の筋疾患であることがわかってから3年、日本の介護制度や就労支援に不安を感じ、身体が動かなくなってもいきいきと活動できる社会になればと思い、「障がいをもちながら生きるとは」ということを根本から考えるために、研修に臨みました。 障がい者と健常者が共に学ぶ学校エグモントホイスコーレン  2017年1月、デンマークに降り立ちました。場所は、デンマークの首都であるコペンハーゲンから車で約5時間、オダーという小さな町です。  この場所には、エグモントホイスコーレンという学校があります。同校は全校生徒200名、うち障がいをもつ生徒が約半数。全校生徒が学校の中にある寮内で共同生活をし、日々のコミュニケーションの中でお互いをサポートしたり、将来の夢を見つけたりする、「人生のラボ」のような学校です。 エグモントホイスコーレンの特色     私の通ったエグモントホイスコーレンは2つの役割を担っている学校でした。 ・学校としての役割   毎日8時30分〜15時30分まで授業があります。科目は、アートから心理学、スポーツ、料理まで様々。みんな思い思いの授業を履修しており、先生も生徒も「障がいがあってもなくても、できる、楽しむ」ことを大事にしています。  障がいのある学生には授業中に必ずアシスタントティーチャー(先生兼ヘルパー)がついて、その学生にあった参加の仕方を考えながら隣でサポートします。 ・ラボとしての役割   授業中はアシスタントティーチャーがつき、就寝後になにかあった際は保健室に常駐するヘルパー(HHA)が対応してくれますが、日常生活の基本は学生同士の思いやりで成り立っています。障がいのある学生の部屋に、ベッドから車椅子への移乗ボードがない!!!となれば、みんなで作ったり、歌が上手な車椅子の学生は毎週末ダンスパーティーのステージで歌を歌ったり。    ここで「障がいがあるからできない」というと「え?」「なんで?」という素朴な疑問と「じゃあ、やれる方法を一緒に考えよう」という応援の声が目立ちました。  また、この学校の大きな特徴として、障がいのない学生は障がいのある学生のヘルパーとして働くことができます。デンマークでは資格がなくてもヘルパーができ、また障がい者が雇用主となって自由にヘルパーを雇うことができます。多くの障がいのない学生は、障がいのある学生のヘルパーをする代わりにお給料をもらったり、雇用主である障がいのある学生に授業料の一部を支払ってもらったりしていました。授業内外で、助け合いを学んでいました。 現地でのコミュニケーションや宿舎の手配について    留学中は全寮制の学校に在学したということもあり、宿舎の手配は必要ありませんでした。また、授業はデンマーク語ですが、デンマーク人の友人たちが英語で通訳をしてくれ、授業の趣旨などは理解をすることができました。 デンマーク発祥の介護制度パーソナルアシスタント制度    授業では、デンマーク発祥の介護制度を学びました。その名も、「パーソナルアシスタント制度(以下BPA制度)」。BPA制度では、障がい者が“雇用主”となってヘルパーを雇用し、日本のように自治体から派遣される、時間制のホームヘルパーは利用しません。障がい者自身が自分でヘルパー(無資格でも可)を面接・採用・教育し、自分の生活スタイルに合わせてシフトを決めます。    ヘルパーの賃金は自治体負担です。ひと月の利用金額には上限がありますが、日本のような障がい者手帳が一般的ではないデンマークでは、障がいという区別や定義はせず、残存能力と当事者のニーズによって保障の内容を決めていきます。制度の利用に慣れるまでは、自治体の組織もマネジメントをサポートしてくれます。  障がい者がヘルパーをマネジメントし、その際の責任も障がい者自身が担うというBPA制度。BPA制度は、1970年代、障がい者たちの国への呼びかけと啓蒙運動から始まりました。自分の人生を自分で設計する。その結果、リスクを負っても自己責任。BPA制度で、もし自分のヘルパーがミスをして自分の安全が脅かされても、それはヘルパーの過失でもあると同時に、採用した自分の責任と指導力不足でもあるという意識が大前提です。  授業では、デンマークでBPA制度を利用し自立生活を送る重度障がい者のミケルさんにお話を伺いました。  ご自宅は広々とした庭付きの一軒家でした。お金を貯め、自分で購入したそうです。デンマークの障がい者年金の充分さと就労意識の高さがうかがえます。  BPA制度を使いミケルさん自身が採用したヘルパーさんが、毎日彼を介助します。仕事内容もミケルさんが指示を出し、深夜の賃金を加算したり、その分、日中の賃金を下げたり。給与の設定もミケルさんに一任されていました。    ミケルさんのお話で印象的だったのは、事故後、彼がその制度のおかげで大学に通えたということです。車を運転できないミケルさんは、大学まで運転でき、授業をサポートできるアシスタントを採用しました。大学に通ったことがその後の就職や豊かな生活に繋がりました。  国が障がい者のケアを渋らないということは、進学支援やその後の就労支援に繋がると感じました。  家族介護が基本の日本では、進学に際して役所に相談しても公的援助はありません。同居する家族がいる場合、家族で介助せねばならず、家族が学校まで送り迎えをし、授業中も学校の近くで待機。そのため、家族は仕事を辞めるなどの決断を迫られたり、体調を崩したりします。  デンマークでも家族介護はありますが、BPA制度を利用し家族をヘルパーとして雇用すれば、自治体から家族に給与が支払われます。介護で家族が経済的に困窮することはありません。  BPA制度はデンマークの介護制度のほんのひとつです。人事管理ができる重度肢体不自由の障がい者しか適用されないなどの課題もあり、利用者数も多くはありません。その点、スウェーデンなどの他の北欧諸国のほうが、精神・知的障がい者にも制度が適用され利用者拡大が進んでいます。  しかし、デンマークでこういった福祉制度が整うのは人生や社会への成熟した考え方があるからだと感じました。福祉の根底にあるのは「民主主義」「自己決定」「連帯意識」の3つの国民意識。障がいは、家族ではなく、社会が救い出す。そういったデンマークの福祉の精神を感じることができる介護制度でした。 夏季休暇中のドイツでみた 障がい者の歴史    夏季休暇中、私はドイツへ赴きました。場所は、ハダマール(Hadamar)という、フランクフルトから電車で3時間かかる小さな町です。  ハダマールの無人駅に降り立ったとき、シンボルになるような場所もなく迷ってしまいました。 「あの……ここに障がい者の方が犠牲になった施設があると聞いたのですが」 「えぇ、あるわよ。地図、持ってないのね。じゃあ、連れてってあげる」 きれいに切り揃えられた銀色のボブヘアーにショッキングピンクのカーディガン。無人駅のベンチに座って私を助けてくれたのは、瞳がキラキラしている、かわいい、70代のおばあちゃんでした。  ハダマールには、ナチスが大戦中に、障がい者とユダヤ人に対する安楽死計画を実行した病院があります。生きるに値する命と、生きるに値しない命を選別し、病院内のガス室に送り込む。強いドイツを築くため、という主張でしたが、ふたを開ければ医療の発達に伴い自然発生した優生思想に加え、社会福祉に掛けるお金がないことを理由にした虐殺でした。  1940年代、ドイツ中から集められた障がい者が乗った“死のバス”と呼ばれる灰色のバスがこの病院に向かいました。バスが病院に到着したあと、病院の煙突から立ち上る黒い煙。被害者の遺族には、死亡日と死亡理由が改ざんされた偽の死亡診断書が送られました。街の人たちは、おかしいと思いながらも声を上げることはありませんでした。  ハダマールでは1941年から42年にかけて、主に身体障がい者、精神障がい者、適応障がいの人々、15,000人が犠牲となりました。   駅から案内してくれたおばあちゃんと二人で、息を切らして丘の頂上にある慰霊塔を目指しました。丘のてっぺんに着いたとき、おばあちゃんが、慰霊塔に刻まれた文字を説明してくれました。「この意味はね……Person, take care as a person?(他者への尊重)うまく英語にできないけど、そういうことが書いてあるのよ」と言って、じっと見つめました。  そのあと丘の中腹に戻って、公民館のような小さな元精神病院に入りました。病院の奥にはガス室のある地下に続く階段。ヒヤッとする真っ白い地下に向かおうとしたときに、おばあちゃんが私に告げました。 「こっから先はひとりで行ってね、私、ガス室には入らないから」 「わかりました、すぐ戻ります」  そう言って地下に続く扉を開けて、一歩ずつ下っていきました。  そこは、世界から音を消し去ったような場所でした。真っ白な壁につたう配管が、まだ当時の温度を持っているようで怖かったことを今も覚えています。これは本当に過去の出来事なのだろうか、まだ私たちはこれを“過去”とは言い切れないのではないだろうか。苦しくて、長くはいれませんでした。  階段を上ったら、おばあちゃんが待ってくれていました。 「電車の時間がもうすぐよ」  そう声を掛けてもらい、二人で丘を下ります。  そのとき、おばあちゃんがボソッと呟きました。 「あのね、さっき一緒にガス室に行けなかったのはね、私の旦那さんがユダヤ人だったから。彼はね、小さい頃アウシュビッツで過ごしたのよ、7年間。どうして殺されなかったかって?みんなが殺されるわけじゃないの。働ける人は殺されないのよ。命を、選別されてたのね。彼は生き残ってドイツに戻って来た。だけど、大人になってから心を病んでしまったの。アウシュビッツのときの記憶が消えなくて、夜もその話をしていたし、お医者さんにも何回か通ったわ。だから、ガス室には行きたくなかったの」 「学校では、どう教わったんですか?戦争のこと、虐殺のこと」 「学校で教えられたのは“忘れること”。今は違うけど、戦後すぐの学校教育では、戦争のことには決して触れなかった。誰も喋ってはいけなかったのよ。でも、その教育は間違いだったわね」 そう、語ってくれました。 「良い旅を」  そう言っておばあちゃんは、駅で電車が見えなくなるまで手を振ってくれました。  その1ヵ月後、私は別の街に降り立ちました。福祉の街、ベーテル(Bethel)。ここはナチスの安楽死計画に水面下で抵抗し続けた街です。150年前は主にてんかんの患者が集まる地域でしたが、福祉の評判を呼んで、多くの障がい者や健常者が集まって暮らすようになりました。  東京ドーム約75倍の敷地に、てんかん専門病院など多くの病院、ホスピス、学校、幼稚園、農場、街独自の通貨で購入できるスーパーやホテルが並びます。そして、障がい者が通うことのできる研修所(職業訓練所)、アートスペースが軒を連ねます。 「障がい者に居場所を。 障がい者に仕事を。 150年前から続くモットーです。」  大戦中、ナチスが街にいる障がい者を選別しようと、幾度と街を訪れましたが、そのときの施設長が交渉を重ねました。 「こんな計画、やめてください。殺されていい命があるわけがない」 その結果、ベーテルでは障がい者の虐殺は行われませんでした。今では、世界中でベーテルをモデルにした福祉都市がつくられています。  障がい者の命を見つめた二つの街。この二つの街をまわるときずっと優生学という思想が頭を離れませんでした。生きるに値する命と、生きるに値しない命。前までは、真っ向からその論説に反論するための材料を探していました。でも今は、優生学を語る人に、優生学の観点から応えなくてもいいのだと思っています。私たちはどんな未来を望むのか、その一点のみを考えるべきなのだと感じます。  過去から未来への直線の上をまっすぐに走り続ける国、ドイツ。足元に透けて見えるその直線を、思いっきり駆け抜けたいと思いました。 最後に    中東への修学旅行、2日間で42qを歩ききるウォーキングマラソン、真冬の寒空の下、屋外サウナと海を行ったり来たりするなど、エグモントホイスコーレンでの日々は、障がいを理由に躊躇してしまいがちなことに挑戦する勇気をくれました。またBPA制度の成り立ちや、ドイツの障がい者の歴史を学び、障がいを持つ人自身が、自分たちが生きづらいと感じている問題点を社会に訴え、解決に挑んできた歴史があることを学びました。高度な社会福祉の実現には、障がい者自身がしっかりと意志表示をしていくことが不可欠だと思います。  帰国後は、自分の住む地方自治体の福祉政策について、市役所の方と意見交換をしていく。また障がいの問題に留まらず、社会人として、介護や育児、働き方に不安を持っていたら、周囲の人や、会社、自治体と議論を重ねていく。社会を前進させる意識を持ち、柔軟な意見交換を忘れないこと。これが、デモクラシーという言葉を空論にせず、生活レベルに落とし込んでいるデンマークの人々の生き方から学んだことです。  これからも、支えて下さった皆様のお力に感謝し、デンマークでの学びを日本の「生きづらさ」を抱える皆さんの問題解決に役立てていきたいと思います。 個人研修生  重田 竜佳さん 大阪府 聴覚障がい 研修期間:2017年1月7日? 2017年12月28日 研修国:アメリカ合衆国 研修機関:Santa Clara County Office of Education・Della Maggiore School・Hester School・Ohlone College・その他 研修テーマ:アメリカ合衆国(カリフォルニア州)でのディスアビリティ(障がい)に関する理論および障がい者政策の研究 研修目的:Americans With Disabilities Act(障がいのあるアメリカ人法)という法律や、ディスアビリティ概念(障がいの社会モデル)の普及など、差別禁止アプローチが展開されているアメリカ合衆国において、講義・視察・インタビュー・事例研究などを通してディスアビリティに関する理論と公共政策を研究する。また、アメリカの州の中でも障がい者施策に熱心に取り組んでいるカリフォルニア州において、実際に展開されている障がい者政策の事例研究(政策の特徴・手法・課題などの把握)を実施する。これらの研究を通して、日本の環境(歴史・現行制度・課題など)との比較研究を最終的に行い、日本の公共政策(特に障がい者政策)の課題に対して当事者視点を交えた現実的な解決策を論理的に導き出し、障がい者福祉の発展に寄与することを目指す。 タイトル 「友人や恩師との出会いが私自身の成長を促進させてくれた」 研修に応募した理由    私は一人の人間として、また一人の障がい当事者としても、「差別」という現象は何故起こるのかを考えてきています。そして、私自身も差別をしうる者として、その現象を乗り越えて障がい・性別・国籍などに関係なく全ての人々が自分らしく暮らしていける社会を構築していくにはどうすればいいのか、という難題に真摯に向き合う必要があると考えています。何故ならば、例えば情報・空間などへのアクセスや障がい者雇用などにおいて、障がい者の立場(基本的人権)が十分に保障されているとは言い難く、今後の障がい者福祉の発展を目指すには、障がい者などの当事者による視点も交えた公共政策の更なる発展が必要であると考えているためです。このことは障がい者だけに限らず、女性・高齢者・外国人などにも同様のことが言えるのではないかと思いますし、少子高齢化や多様性の深化が一層進んでいくであろう日本社会においては全ての人々が希望をもって共存できる社会をいかに構築していくかを考えることは極めて重要な意義があると考えています。  この問題意識を私は持っているため、「公民権運動と共に権利の獲得を目指して展開した障がい者運動や、ディスアビリティ(障がい)概念の普遍化を目指してきた障がい当事者の活動などの歴史があり、また1990年に成立しAmericans With Disabilities Act(障がいのあるアメリカ人法)などによって障がい者に対する差別禁止アプローチがとられているアメリカにおいて、ディスアビリティ概念の理解を深めつつ障がい者に関する最新理論や公共政策の事例研究を学ぶこと」は、私にとって全ての人々が共存できる社会を最低限にでもいかに保障していくかを考えるための良い手がかりになると確信したため、今回の研修への応募を決心しました。  また、私が多くの海外派遣事業や奨学金の中からダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業を選んだ理由として、「@研修のテーマ・分野・場所などをほぼ制約なく自分自身で設計できる」という点、「A伝統と実績」(1981年にこの事業が始まって以来、2018年時点で37年間も続いており、約500人もの多くの障害者リーダーを輩出してきた実績)があったという点、の2点がありました。実際に、私が研修全体を設計する上で、最初から色々と手配していただくのではなく、自分から研修目的に沿って多くの方々と接触して情報を得たり様々な機関と交渉したりしたことは、自分自身を大きく成長させてくれた良い時機となったように考えています。それだけでなく、以前の研修生や関係者からも有意義な情報や助言を積極的に提供いただいたり、必要に応じてしかるべき方と繋いでいただいたりと、多方面からのサポートをしていただきました。そのため、自分で考えるだけでは決して気付くことのできなかった世界や視点を身につけることができるようになり、研修を最後まで円滑に進展することができました。 研修先について  今回の研修で私が訪問した機関は多くありますが、その中でも特に印象に残った機関は、「Ohlone College」と「Santa Clara County Office of Education」です。この2つの機関での講義やフィールドワークなどの研修を通して、アメリカ合衆国のディスアビリティ(障がい)に関する理論と現代社会の課題を理解できたのみならず、友人や恩師との出会いが研修に関する新たな視点や方法の習得に繋がり、私自身の成長を促進させてくれました。  Ohlone Collegeは、Deaf Culture(ろう文化)やASL Linguistics(アメリカ手話の言語学)などの聴覚障がいに関する多種多様な教育プログラムが用意されており、研究施設も手話通訳者養成コースも学生の相談にのるカウンセラー(カウンセラー自身も聴覚障がい者)なども整備されているという、アメリカ合衆国の中でも珍しいコミュニティカレッジです。更には、この機関に聴覚障がいに関する研究で非常に多くの実績を残されている聴覚障がい者の教授がおり、彼の授業は非常に評判のあるものでした。私自身、アメリカ合衆国の中でも特にカリフォルニア州に焦点を絞ることにしたのは、こちらの教授の存在によるところが大きかったためです。実際、ここで得られた聴覚障がいに関する知識や視座、教授からの指導などは、私の研修の目的を達成するのに大きく資しています。  Santa Clara County Office of Educationは、多種多様なニーズのある方々に適切な教育を、一般学校以外でも提供することを目指して設立されたカリフォルニア州サンタ・クララ郡の教育組織です。この組織には多くの施設が属しており、私が訪問したDella Maggiore SchoolとHester Schoolという施設は、post-secondary school(中等教育を終えた方々のための学校)として、18歳から22歳までの聴覚障がいのある生徒(重複障がい者を含む)を対象としていました。これらの施設で、私は指導教官のサポートのもと、Individuals with Disabilities Education Act(障がい者教育法)やIndividualized Education Plan(個別教育計画)などのアメリカ合衆国における障がい者に対する公共政策(教育政策・社会政策)の実際や課題を理解しながら、企画立案・運営を通して生徒への教育指導(職業指導)や交流などをしていくことで、知識と能力を深めていくことができました。一方で、障がい者(児)の置かれている環境は政治的に不利であり教育を含めて多くの分野・領域で看過されている課題が未だ多いという現状や、障がい児の「自立」をどう考えるかという問題など、私自身葛藤したり考え込んだりして力不足を痛感することもありました。 ビザ・滞在先について  日本を国籍とする方が(ビザ免除プログラムを除いて)アメリカに長期間滞在するためには、米国移民法という法律により、渡航目的や特定の事情などに沿ったビザを渡航前に申請する必要があります。このビザの申請及び発行が私にとっては非常に大変でした。何故ならば、ビザの申請と発行にそれぞれ数ヵ月間を要したということと、ビザの申請に必要となる書類の発行を研修機関に依頼する必要があったためです。私の場合、研修を受け入れていただける機関は早くから1つ決まっていましたが、その機関にはビザ申請のための書類を発行する経験が今までになかったため、研修開始の時期が大幅に遅れてしまうことがありました。しかし、他の機関でも研修受入が運良く決まり、F-1ビザ(学生ビザ)の申請に必要となる書類を迅速に郵送いただいたため、その後の在日米国大使館(領事館)での面接などを含む申請手続が円滑に進み、最終的にF-1ビザを無事に発行いただいたため、無事にアメリカに渡航でき、約1年間の研修を終えることができました。私の経験から、研修機関を選定する際には、これまでビザ申請に係る必要書類も発行してもらえるか、またその実績があるかも勘案しておくと尚更良いと考えます。研修を受け入れてくれる機関が複数ある場合、書類発行に実績のある機関に優先して発行依頼する方が良いでしょう。また申請手続は数ヵ月間の余裕を持って早めに実行しておくことを強くお薦めします。  滞在先に関しては、今回はホームステイという形式を選択しました。私が滞在したサンフランシスコ・ベイエリア周辺はシリコンバレー近辺でもあり、GoogleやFacebookなど多くの有名企業やスタートアップなどが密集しており、地価が高騰していたためです。滞在先の選定と受入決定に関しては、幸いにもカリフォルニア州に在住している私の友人が力を貸してくれたため苦労はしませんでした。経験を積みたいということから研修の途中で他の家に移転することもありましたが、その際も私が所属していた研修機関の職員よりサポートしていただけました。海外の滞在先を探すにはやはり現場の方々に直接交渉する方が適切かと考えます。それが難しそうであれば、ホームステイ先やアパートなどを斡旋してくれるサービスや団体を探すのも方法の1つかもしれません。  ホームステイ自体は私にとって非常に意義のある経験となりました。ホームステイを受け入れてくれたホストファミリーやルームメイトの方々と触れ合うことによって、英語でのコミュニケーションや異文化理解などを促進できたことが理由です。もちろんホームステイは良いことばかりではなく、また日本では当然と考えられていた環境や価値観がないため、自ら適応しなければならないところが多かったため、適応というプロセスを経て自分自身を成長させることができたと考えています。研修を終えて帰国した後、以前と比較して精神的に強健になっている自分がいました。あくまでホームステイは生活するための方法の1つに過ぎませんが、条件が整っていれば一度でも是非経験してみた方が良いと思います。 コミュニケーションについて  今回の研修ではアメリカ合衆国に滞在していたため、英語とAmerican Sign Language(略称ASL、アメリカ手話)が私にとってのコミュニケーションにおける主要な言語でした。  英語に関しては、私が小学生だった時から海外でもいつか社会貢献できるようにという憧憬を抱いていたため早くから熱心に学習に取り組んでいたので、今回の研修でアメリカ合衆国に渡航する前には実用英語技能検定(英検)1級・TOEIC リーディングセクション満点(495)といった水準に辿り着けてはいました。そのため、英語に苦手意識を特段持ってはおらず、日常生活でもコミュニケーションでも日本語の場合とほぼ変わらない感覚で過ごせていました。一方で、ネイティブが使用するスラングや言い回し、専門書で出てくるよりアカデミックな語彙や内容などを理解できないことが時折あったため、渡航後もTOEFL iBTの参考書を中心に学習を継続していました。この学習は私にとって有益であり、深い議論をするのにも講義や専門書をより理解するのにも非常に有用でした。現場の使用言語が分からない状態であっても、研修での実際のコミュニケーションを通して言語を習得していく方法もあると思います。しかし、その言語をある程度理解できる水準でなければ、専門性の高い話題についていくことは厳しいと考えています。従って、研修などで海外に渡航される場合は、可能である限り少しでもその言語に対する理解度を深めておいた方が良いと私は考えています。  ASLに関しては、英語とは異なって全くの無知であるという状態でした。そのため、渡航の半年前にはASLに関連するWEBサイト(ASLによるニュースサイトやYouTubeなど)や書籍で独学を進めていました。しかしそれでも限界があり、渡航して最初の数ヵ月はコミュニケーションもままならず、むしろ英語でのコミュニケーションが非常に楽だという状況に陥ってしまっていました。この状況を克服するため、ASL使用者との交流の時間を増やすだけでなく、ASLの言語学の授業や手話通訳者養成プログラムにも参加して多方面からASLにアプローチしていました。後者は迂遠な方法かもしれませんが、ASLひいては手話そのものを他の視点から捉え直す良い機会となって多くの利益を及ぼしてくれたように思います。これらの試みもあって、研修を開始して半年後にはネイティブとある程度円滑にコミュニケーションをとることが可能な水準に到達していました。そのため、専門性の高い議論にも参加できるようになり、研修全体の質を引き上げることができました。陳腐ですが、その言語を知らない状況であっても、絶対に最後まで諦めず間違ってもいいから使用し続けることが肝要かと私は考えています。特に最初の数ヵ月間は辛いかもしれませんが、使用し続ければ徐々に慣れてきて楽しくなってきます。また、使用者の表現を真似て自分自身の表現を見直したり改善したりしていくことも非常に有用だと私は感じています。 支援者について  当然のことですが、愛の輪基金や研修機関の関係者をはじめ、家族・友人・恩師など多くの方々に支援されたからこそ実行できたものであり無事やり通せたものと考えています。   愛の輪基金事務局や以前の研修生の方々には、研修計画を設計したり研修機関との交渉やビザの申請手続を進めたりする上で貴重な情報や助言を多くいただきました。そのお陰で、私一人では到底着想することのなかった効率的あるいは効果的な方法を発見し、研修全体を円滑に進行させることができました。今回の私の研修を受け入れてくれた様々な機関の担当者や、受入に働きかけてくれた恩師には、浅学菲才の私に様々な研究手法や理論・視座などを終始教授いただいたのみならず、私の研修を常にフィードバックして刺激を与えていただいたように、研修における精神的支柱のような存在であり続けてくれていました。  家族や友人は、私の活動を常日頃応援していただき、必要な時は私の見解を他の視点から考え直したり、私の至らなさを指摘したりして私の成長を促してくれる大切な存在でした。そして研修を通して新しく出会えた方々をも含めて、ここには書ききれない程に非常に多くの方々に多方面から支えていただきました。  研修を1年間無事にやり通せたことは私にとって大きな自信となり、今後の目標に挑戦する私の追い風となってくれていると感じています。皆様に心より感謝申し上げます。  今回の研修で習得したこと・練磨したことなどを今後の研究と実践に積極的に活用していきながら、全ての人々が自分らしく希望を持って共存できる社会の構築を目指しつつ、皆様に少しでも恩返しすることができればと考えております。  また、私が多くの方々の支援を受けて研修をやり通すことができたように、将来の研修生のために私も一人の支援者として良い影響を及ぼしていければと心から思っております。ありがとうございました。 個人研修生  大藪 光俊さん 奈良県 肢体不自由 研修期間:2017年4月27日〜2017年9月8日 研修国:アメリカ合衆国 研修機関:Access Living (自立生活センター) NCIL (National Council on Independent Living) Lurie Children’s Hospital of Chicago (こども病院) シカゴにある諸障がい関連施設 研修テーマ:アメリカにおける重度肢体不自由者の社会参加および社会貢献について  ―シカゴエリアにおける障がい者の生き方の多様性を探る― 研修目的:人種、信条、宗教、ジェンダーなど、多様な人々が混在するアメリカ社会において、障がい者の存在がいかに社会に認められているのか、またいかに社会に貢献しているのかを明らかにする。また、障がい者として生きる上で、どのような人生設計が可能か、その多様性を模索する。 タイトル 「みんな違って当たり前、それがこの世界の美しさなんだ」 研修応募の動機や テーマについて  私は「アメリカにおける重度肢体不自由者の社会参加および社会貢献について ―シカゴエリアにおける障がい者の生き方の多様性を探る―」というメインテーマのもと、シカゴにある自立生活センター “Access Living” を中心に約4ヵ月半にわたって研修させていただきました。  私には生まれつき脊髄性筋萎縮症 (SMA) という筋疾患があり、現在では首から下はほぼ自力で動かすことのできない状況で、わずかに動かせる右手で電動車いすを操作し生活しています。小学生から高校生まで京都の特別支援学校で学び、高校卒業後は奈良県にある天理大学の英米語専攻に進学すると同時に、親元を離れヘルパーさんにお世話になりながら一人暮らしを始めました。英語を専門に学んでいた私は、かねてよりアメリカに留学したいという夢を抱き続けていたのですが、費用の問題や付き添いの介助者の問題から、半ばその夢を諦めかけていました。そんな時、大学の先生の紹介でダスキン愛の輪基金の本事業のことを知り、迷わず本研修への応募を決断しました。  今回の研修テーマとして左述のものを選んだ理由は、私の友人たちに由来します。私が通っていた特別支援学校は病院の隣に併設されていたもので、主に筋ジストロフィーをはじめとした筋疾患を持った児童・生徒が在籍していました。その多くが併設された病院で入院生活を送り、学校を卒業した後も病院に入院し続けているという友人がたくさんいます。そんな彼らが病院を離れ、それぞれの地域で社会の人々と関わりながら自立した生活を送るためにはどうすればよいのか、換言すれば、重度の肢体不自由を持つ人々の自立生活について学びたいと思い立ち、アメリカの自立生活センター (Center for Independent Living: 以下CIL) で研修することを決意しました。 研修受入先確保までの道のり  当初私は、自立生活運動発祥の地といわれるカリフォルニア州バークレーの CILで研修を受けたいと考えていたため、まずはバークレーCILに手紙を送り受入交渉を始めました。しかし、1ヵ月経っても何の音沙汰もない、メールで改めてコンタクトを取り、2ヵ月経ってようやくいただいたお返事は「受入不可」というものでした。  その後の妥協案を提示しての再交渉も実らず、次に隣町のサンフランシスコにあるCILへ受入交渉を試みました。留学で現地に滞在していた知人の協力もいただき、何とか受け入れてもらえるように交渉を頑張ったのですが、こちらのCILからも受入承諾をいただくことはできませんでした。その後も一筋縄にはいかなかったのですが、様々な方々からの協力をいただきながら紆余曲折を経て、ついに全米で最も勢いがあるといわれるシカゴのCIL、“Access Living”より4ヵ月の研修受入承諾をいただくことができました。Access Livingから受入OKのメールが届いたときは、涙が出そうなほど嬉しかったと同時に、とても大きな安堵感を覚えたのを今でも鮮明に思い出します。 介助者問題  私の場合、研修受入先確保と同じくらい重要かつ大きな問題がもう一つありました。それは、日本から同行し4ヵ月半にわたって身の回りの世話をしてくださる介助者を確保することです。前にも述べたように、私の身体の状態は右手がわずかに自力で動かせる程度のため、入浴や更衣、排泄はもちろん、食事や水分補給など、日常生活動作のほぼすべてに介助が必要です。そのため、1日24時間介助者を確保しなければならないのですが、シカゴ現地のPA (Personal Assistant) にすべてを依頼すると大幅に予算オーバーとなるため、日中は現地のPA、それ以外は日本からの同行者に介助を依頼することにしました。  大学の先輩や知人、知人の知人など色々な方に声を掛けましたが、やはり4ヵ月半もの長期にわたってアメリカに付いてきてもらうなど簡単なことではありません。こちらも研修受入先の確保と同じようにかなりの骨折りを強いられましたが、最後の最後に、共通の知人を介して天理大学で社会福祉を学んでいた同級生の方を紹介していただき、彼も快くアメリカ同行を承諾してくれ、ようやく大きな難関を超えることができました。 出発目前の動き   そうして二つの大きな課題を乗り越え、次にビザの申請や住居の確保など、渡米に向けた具体的な準備を急ピッチで進めていきました。  ビザに関しては、米国滞在期間が6ヵ月以下という比較的短期の滞在であるため、B-1/B-2 (商用/観光) ビザを取得しました。Access Livingより介助者の名前も明記された正式な研修受入承諾書を郵送していただき、それを補足資料としてビザ面接に持参した結果、私と介助者二人とも面接を滞りなく通過し、申請から約2週間程度でビザのついたパスポートが手元に届きました。  住む場所に関しては、Access Livingの担当者に依頼をして、バリアフリーかつ交通の便のよい場所にある住居を紹介してもらいました。その結果、DePaul Universityという大学の寮に住むことになったのですが、そこは3ヵ月以上の滞在は不可であったため、残りの1ヵ月半は知人宅でのホームステイ及びホステルを利用することに決め、無事に生活の基本となる住居を確保することができました。  こうして出発までの準備は山あり谷ありとなりましたが、最終的にはシカゴに向けて無事日本を出国することができました。 シカゴでの最初の試練  渡米後数日間は、時差の影響や慣れない生活環境に適応するので精一杯だったのですが、1週間程経った頃からホームシック気味となり、とにかく研修先のAccess Livingへ行くのが嫌で、あれほど来たかったはずのアメリカから早く日本に帰りたいと思うようになりました。それには様々な要因が関係していると思いますが、最も大きな要因は言語の問題、つまり英語であったと思います。自分でいうのもおかしな話ですが、私は4年間大学で英語を専門に学び、英検やTOEICといった英語の試験でもそれなりの成績を収め、英語だけには少し自信がありました。それなのに、いざAccess Livingでのスタッフミーティングなどに参加してみると、ネイティブ同士が話し合っている内容の半分も分からない、日常的なことは相手に伝えられても自分の考えや意見を思うように英語で発信できないという有様で、まさに高かった自分の頭を突き落とされた瞬間でした。自分はもっと英語ができるはずだという変なプライドが、自分自身をどんどん追い込んでいき、そして英語から逃げたいと思うようになってしまったのです。しかし、それから数日経過したある時、「英語ネイティブスピーカーのアメリカ人と比べたら自分は英語ができなくて当然だ。一から英語を話すつもりで、自分は自分らしく英語を話そう。」とふっと思えた瞬間、とても心が楽になって英語に対する嫌悪感もスーッとなくなっていきました。そして、そう思えるようになってからは、アメリカ人と話をするのが苦痛どころかむしろ楽しくなってきて、Access Livingでの研修も断然前向きに受けられるようになりました。今思えば、自信過剰だった自分が本当に恥ずかしく思えますが、そうした壁にぶち当たったことで、自分自身が一歩前に踏み出すことのできたよい機会でありました。 留学生活を通して学んだこと  留学中はAccess Livingでの研修を中心に、こども病院や養護施設、リハビリテーション機関や大学など、様々な施設を見学させていただきました。その中でも私の胸に最も強く印象を与えてくれたものは、ワシントンD.C.で行われたADAPT (障がい当事者の権利擁護のために活動する全米組織) による政府に対する抗議運動と、Access Living主催のDisability Pride Paradeです。  自立生活運動発祥の国といわれるアメリカですが、現実のところは、地域での自立生活を送ることができず、養護施設や親元で生活せざるを得ないという障がい者がいまだにたくさんおられます。私が最も関心を寄せていた重度肢体不自由者も例外ではなく、施設や親元で生活しているケースが少なくないわけですが、その最たる原因は地域で自立生活を送るために必要となる、福祉サービスに対する政府からの補助金が十分支出されていないということに由来します。例えば、イリノイ州の場合、人工呼吸器を使用しているなどの特別な理由がない限り、PAを使える時間数は一日あたり最大9時間が限度で、私のように一日24時間介助者が必要な人は、ボランティアの介助者や家族の支援を確保できなければ地域での一人暮らしは実質困難な状況といえます。さらに、トランプ政権は、Medicaid (障がい者の生活を支えている保険制度) の予算を削減しようとしており、もし実際に予算が削減された場合、せっかく施設を離れ地域での一人暮らしに成功している障がい者が、またもや施設へ戻らなければならないという事態になりかねない状況でした。そういった問題を解決しようと運動している障がい当事者グループがADAPTであり、私も抗議活動に参加させていただいたのですが、全員で路上やホワイトハウスの前に座り込み、声が枯れるまで抗議の声を上げ続け、挙句の果てには警察に逮捕されるという驚愕の光景をこの目で目の当たりにし、正直なところADAPTのパワーに圧倒されてしまいました。しかし、これはAccess Livingで働いているスタッフの方もそうですが、彼らをそこまで突き動かす原動力となっているものは、不自由な生活を強いられている障がい者の仲間を救い出したいという思い、いわば自分のためではなく他者のために全身全霊を尽くしておられるということです。障がい当事者が障がいを持つ仲間のために人生をかけて全身全霊を尽くす、その姿や生き様に非常に感銘を受け、私自身もそのような生き方がしたいと強く思わされた瞬間でした。  またもう一つ、強く感銘を受けたものに、Disability Pride Paradeがあります。これは、世間一般の人々が持っている「障がい」に対する考え方を変えることや、障がい当事者自身が自分の持っている障がいに誇りを感じられるように後押しすることを目的に、フロートも用意して街中をパレードするものなのですが、その目的のもう一つに「障がいは、障がいと共に生きる人が誇ることのできる、人間の多様性の中のごく自然かつ美しい一部であるという認識を社会に助長すること」というものがあります。私は今回の留学生活を通してたくさんのことを学び肌で感じてきましたが、それを一言で表すならこの一文がすべてを語っていると言っても過言ではないかもしれません。  「障がい者」というと、良い意味でも悪い意味でも世間から特別視される存在であり、日本においてはアメリカ以上にそれが顕著に見られます。その理由は至ってシンプルで、障がい者はいわゆる“普通の人”ではないからです。しかし、アメリカには、まだまだ問題はあるにせよ、様々な人種、言語、宗教、文化、イデオロギーなどなど、全く異なる背景を持った人々が共に生活しており、何が普通で何が普通でないといったおかしな議論は通用しません。みんな違って、それぞれにいい味を出し合って、そして全体として素晴らしい一つのものを形成するという、この世界の理想の形の縮図をアメリカで見られたように思います。グローバル化や時代の流れと共に人々の考え方や価値観が大きく変容してきている今、ここ日本においても、お互いの違いをわかり合い、違いを尊重し合い、その違いを楽しみ合うという心を一人ひとりが養っていくことが切実に求められているのではないでしょうか。私自身、一障がい当事者として、障がいは決して特別なものではなくこの世界の多様性の美しい構成要素の一つであるという認識を社会に助長していく、延いてはこの世界を誰にとっても住みやすい世界へと変えていく働きかけのほんの一端にでもお役に立てるような人間へと成長していくことを目標に、これからの人生を歩んでいきたいと思います。 おわりに  アメリカ留学中に得た日本のCILの方々とのつながりをきっかけに、今は、京都市内にある「日本自立生活センター (JCIL) 」のメンバーとして障がいを持つ仲間のために活動させていただいています。以前より私は、何のために自分は障がいを持って生まれてきたのか、その意味は何なのかをしばしば考えることがあったのですが、アメリカへの留学及びJCILでの活動を通して、障がいがあるからこそ託された果たすべき役割や使命が山ほどあるのだということを強く認識できました。愛の輪の研修がなければ、このことに気づくこともなければCILと関わりを持つこともなかったかもしれない、そういう意味で私の人生を変えてくれた海外研修に感謝してもしきれません。  今回の留学は、大勢の方々のお力添えなくしては決して実現するものではありませんでした。出発準備の段階から研修を終え帰国に至るまでの間に、本当にたくさんの方々から応援・ご支援をいただき、そのおかげで常に前を向いて頑張ることができました。支えてくださったすべての方々にこの場をお借りして厚く御礼申し上げます。私の長年の夢を叶えてくださり、本当にありがとうございました。 グループ研修生 ジュニアリーダー育成グループ研修 (視覚障がい者ユースグループプログラム) 視覚障がい 研修期間:2016年8月3日〜8月12日 研修国:イギリス 研修先:国立炭鉱博物館、ヨークシャー彫刻公園、キャッスルショウ野外教育センター、ヴィクトリア&アルバート博物館、ロンドンアイ、RNIB、大英博物館、ロイヤル・アルバート・ホール、在英国日本国大使館、セント・ポール大聖堂 研修テーマ:@日常生活・情報・文化・教育・就労等における障がい者のアクセシビリティについて A障がい者の自立に向けた努力や取り組み B障がい者リーダーの活動状況や想い C異文化体験 D自立への意識・コミュニケーション力・他人への思いやり・リーダーシップ等の向上 研修生:青木悠弥さん(東京都・高校生) 今岡 称さん(大阪府・高校生) 菅田利佳さん(和歌山県・高校生) 横山政輝さん(千葉県・高校生) スタッフ:石川英司さん、佐藤紀子さん、鈴木 彩さん、松崎 茜さん、宮ア晶子さん アドバイザー:青松利明さん(実行委員) タイトル これからの生き方次第で私たちも誰かを支えられる存在になることができる はじめに  2016年8月3日から12日まで、イギリスにおいて視覚障がいのある高校生を対象に10日間の研修プログラムを実施しました。  研修の前半は、イギリス・オールダム教育局 特別なニーズ支援部視覚・運動障がい児チーム 代表のKay Wrench(ケイ・レンチ)先生ご夫妻が宿泊施設に一緒に泊まり込んでくださり、コーディネートをしてくださいました。また後半は、RNIB(英国盲人協会)政策・運動部門のMs. Suzanne O'neill(スザン・オニール)氏、在英国日本国大使館書記官 医療・社会福祉担当和田幸典氏・同教育担当板倉寛氏にプログラムのコーディネートの協力をいただき、研修を実施することができました。宿泊は、前半が野外教育センターとホームステイ、後半が大学の学生寮でした。前半は自然豊かな地方に、後半は大都市に滞在しながら、視覚障がい当事者やその関係者との交流、イギリス文化の体験、教育、芸術、アクセシビリティに関する学習等、多岐に渡る研修をおこないました。 研修を終えて(研修生) 1)青木悠弥  今回の研修は、1ヵ月分の経験を10日間に凝縮したような充実した研修でした。研修目的として私が掲げた2つの項目は、達成できました。しかしそれ以上に、私の中でホームステイの思い出は印象に強く残っています。実は私は、英語への苦手意識があり、この研修がその克服に繋がれば良いと期待していました。拙い英語でしたが、ホストファミリーとじっくり話せたことは、私に「英語を上手に話せるようになりたい」という気持ちを起こさせました。これだけでも私は、この研修に来ることが出来て良かったと強く思います。    さらに、ほぼ初めてとも言える海外に、このメンバーで、このプログラムで行くことができたことは大変すばらしいことでした。研修生は個性豊かで、様々な話をして笑って、共に研修を楽しめたと感じています。お互いに意見を出した末に作り上げた異文化交流パーティの成功は、私の中で1つの自信になっています。引率スタッフの方々ともたくさんのお話をすることができ、日本のインクルーシブ教育に関する情報など大切なことをたくさん知ることができました。そして、この研修でしか体験できない講義やタッチツアーが準備されていたことは、とてもありがたいことだと思います。  この研修は10日間という短い期間でした。そのため、語学留学などのように、それに特化した能力を上達させることはできませんでした。しかし、たくさんのきっかけ、たくさんのご縁をいただき、私の人生にとって大きな財産になったと考えています。もし、海外に興味のある後輩がいれば、このプログラムを勧めたいと思います。ぜひ、この研修プログラムが続いていってほしいと願います。  このイギリスでの経験を糧に、これからも多くのことを吸収していきたいと思います。そして、日本社会、特に教育をより良くすることに貢献したいです。  最後に、この研修を支えてくださった本当にたくさんの方々に、深くお礼申し上げます。誠にありがとうございました。 2)今岡 称  10日間の研修は、毎日が発見や出会いの連続でした。異文化交流、クライミングやカヌー、芸術鑑賞、ホームステイ、大使館訪問など、どれだけ多くの方々が私たちの研修に関わってくださったのでしょうか。そして、支援者の視点、第三者の視点でのお話も、芸術・スポーツ・福祉の異なる分野で活躍されている障がい当事者の方々のお話も、どれも興味深く初めて知ることばかりでした。  私はすべての人にとって住みやすい社会は、バリアフリーが進んで制度が整った社会だと思っていました。そこで研修の目的に、イギリスの進んだ福祉制度を学ぶことを挙げ、学んだ制度を日本に応用できればよい社会が作れると考えていました。  研修前、福祉先進国イギリスに対しては、バリアフリーが進んでいて、誰もが一人で自由に行動できるイメージを持っていました。ところが街並みを作っている古くて歴史ある建物にはエレベーターがなく階段ばかりで、道は石畳で車いすやベビーカーに不向きな印象でした。しかし、生活しにくさは感じないし、私たちの外出も特別難しさはありませんでした。研修でお話を伺い、様々なプログラムの体験を通して、それがイギリス人のもつ助け合いやチャリティ精神によるものだと気づいたとき、自分の考え方は間違っていたのかもしれないと思いました。物理的に設備がしっかり整っていなくても、それを助け合いの精神で補えば問題ないのです。政府に難しいなら、RNIBのように民間団体で作ることもできる。多面的に考えることで別の解決方法を見つけられる。大切なのは、心がバリアフリーであることと、助け合うことを楽しむことでした。  この研修への応募、面接、二度の事前研修、壮行会、イギリスでの10日間、私は「障がいを持っている自分」について何度も繰り返し考えました。自分はどんな人間なのか、何を希望しているのか、不安に思っていることは何か、何ができるのか、将来の希望、どうやって生きていきたいのか、もしも障がいがなかったら、など。今回の研修で私が得た最も大きなものは、障がい者は弱者ではないと感じられたことです。これからの生き方次第で私たちも誰かを支えられる存在になることができる。そのようなことに気づかせてくれた本当に素晴らしい研修でした。最後に、この研修を支援してくださったすべての方々に感謝申し上げます。そして私はいつか、この研修を支援できる人間になることを約束します。 3)菅田利佳  この研修で私は、数え切れないほどの素晴らしい経験をし、「視覚障がい者への音楽教育について知る」、「英語力を試す」という目的を果たすことができました。  どの活動も印象的でしたが、博物館のタッチツアーで多くの芸術作品に直接触れられたこと、オールダムの大自然の中で行ったウォールクライミングやカヌーは、現地に行かなければできない貴重なものだったと思います。  また、イギリスの視覚障がい者への音楽教育やインクルーシブ教育について話を聞けた事は、私にとって大きな収穫でした。それまでの私には、イギリスの教育は発展していて障がい者への支援も行き届いているというイメージがありました。しかし、一口にイギリスと言っても、一般校に通う視覚障がい者への支援体制、点字楽譜の普及状況など様々な面で地域による格差もあるそうです。この点では、日本と似ていると感じました。  それぞれ異なる環境で学び、現在国際的に活躍されている視覚障がい者の方々の言葉は、私に目標に向かう力を与えてくれました。  その他に、異文化交流パーティやホームステイを通して、たくさんの人々と関われたことも大切な思い出です。私の英語力には、コミュニケーションを取る上でまだまだ力不足な面もありましたが、現地の方々は皆、一生懸命理解しようとしてくださり、会話を楽しむ中で、友人もできました。  振り返ってみると、毎日がとても充実していてあっという間の十日間だったように思います。研修生同士の絆も深まり、最後に別れるのが少し寂しいほどになっていました。これからは学んだことを大切にしながら、語学力やピアノの演奏技術を磨き、音楽留学を目指して頑張りたいと思います。そして将来は、人々に感動や希望を届けられるようなピアニストになりたいです。  終わりに、ダスキン愛の輪基金の皆様や引率スタッフの方々をはじめ、私たち研修生を応援し、支えてくださった全ての皆様に、心から感謝の気持ちを伝えたいと思います。本当にありがとうございました。 4)横山政輝  今回の研修では、10日間の貴重な体験を通し、様々な事を学びました。私は主に3つの目的をもってこの研修に臨みました。  1つ目はイギリスの視覚障がい者教育について学ぶということでした。教育の進んでいるイギリスでは、通常の学校でも視覚障がい者が普通に学習できるようになっているのかと思っていたのですが、教材の不足や、地域ごとの支援体制の差など、まだまだ課題が多くあることがわかりました。個人的には日本の盲学校も施設・設備が整っており、専門性のある先生方の指導を受けられるため、インクルーシブ教育には無い良さがあると思います。  2つ目の目的であった博物館等でのバリアフリーを学ぶことについては、今回3つの博物館を見学することができましたが、そのどれもが日本より多くの展示物を直に触ることができました。特に炭鉱博物館は実際使われていた坑道に入り実物の機械を見学できるのでとても貴重な博物館だと思います。また、大英博物館やヴィクトリア&アルバートミュージアムでもタッチツアーがあり展示物に触れることができたのは良かったと思います。日本の博物館もタッチツアーを積極的に行ってほしいものです。  そして、イギリスの文化を体験するという目的では、いろいろな料理を食べ、さらにはマースデンの町中にあった中世時代の拷問に使われた道具にまで足をはめたので十分体感できたと思います。  今回、イギリスの視覚障がい者の方々にお会いして、情報発信の大切さ、そして何よりもあきらめない事の大切さを実感しました。また、お話を聞いたり、実際に街を歩いたりすると、日本との様々な違いが見え、日本もイギリスもお互い学び合うべきことがたくさんあると感じました。今回のような研修でなければこうした事を学ぶのは難しいと思います。この研修は自分にとって大変貴重なものとなりました。  最後に、今回の研修をサポートしてくださった先生方、ダスキン愛の輪基金の皆様、そして共に研修に参加した仲間に感謝したいと思います。皆様本当にありがとうございました。これからもこの研修プログラムが続いて行くことを願っています。 おわりに  研修全体のアドバイザーとして、研修生・スタッフの全員が大きな病気や怪我も無く、無事に帰国できたことに安堵しております。また、ハードスケジュールにも関わらず、全員がほぼすべてのプログラムに参加することができ、充実した時間を過ごせたことをうれしく思います。  ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業の実行委員として、このようなジュニア研修を企画・実施することは、私の希望でもあり夢でした。それは私自身が高校時代に1年間アメリカに留学し、異文化の中で生活・学習をすることで、その後の生き方を左右するような大きな刺激を受けたからです。今回は2年ぶりとなる2度目の研修でした。短期間ではありましたが、各研修生のまとめを読むと、彼らが様々なことを学び、大きなインパクトを受けたことが伝わってきます。  高校生という若い世代の視覚障がい者が直接異文化にふれ、同年代の視覚障がい当事者と交流し、アクセシビリティについて知り、視覚障がいのある人のための最新のサービスを学ぶという体験は、彼らの将来にとって意義のあることだと思います。これらの経験を通じて、かけがえのない財産を得ることができたに違いありません。  忙しい中、参加してくれたスタッフの協力がなければ、この研修は実現できませんでした。研修生の健康管理、記録のための写真や動画の撮影、レストランの検索や選定、地図の確認、細かな会計作業、宿泊施設や飛行機・鉄道の予約、各施設との連絡・調整など、さまざまな役割を分担しましたが、スタッフ間のチームワークの良さが研修の成功につながったものと思います。  この場をお借りして、公益財団法人ダスキン愛の輪基金、スタッフのみなさま、さまざまな形で研修生を応援し送り出してくださった保護者や各学校の先生方、イギリスでの受け入れをしてくださったレンチ先生をはじめ多くの方々、その他支援してくださったすべてのみなさまにお礼申し上げます。 青松利明(アドバイザー) 公益財団法人ダスキン愛の輪基金 〒564-0063 大阪府吹田市江坂町3-26-13 TEL.06(6821)5270 FAX.06(6821)5271 http://www.ainowa.jp