アジア第22期研修生報告書(日本語版) 手話で分かち合えた時間が一生の宝物 ノー・サン・ター・ウイ ミャンマー出身 26歳 聴覚障がい 研修目標 1.新しい手話単語の創出方法 2.手話の指導方法 3.ろう者が書記言語を習得する方法  はじめまして。ダスキン22期研修生のノー・サン・タ―・ウイです。名前が長いので、ウイと呼ばれています。ミャンマー出身です。ヤンゴンにあるろう学校で、手話の指導を担当しています。私は両親と妹の4人家族で、私以外の家族は聴者で、ろう者は私だけです。 コミュニケーションに起因したミャンマーのろう者が抱える問題について   私の両親と妹は手話が少しできます。しかし、家庭内のコミュニケーションで手話が使われることはほとんどありません。同様に聞こえる両親の元に生まれたろう者が、家族とのコミュニケーションで手話を用いるというのは聞いたことがありません。つまり、家庭内でのコミュニケーションや情報がほとんどないということです。  また、ろう者のほとんどが、書記ミャンマー語がしっかりと身についていないため、例え、ミャンマー語で筆談されたとしても分からないことが多いです。このことは、ミャンマーのろう者が社会に出た際に大きな障壁となります。就労の面でも、大きな問題となっています。  日本では、ろう児のいる家庭で、手話によるコミュニケーションが円滑に行われていました。ろう学校の子どもたちの書記日本語の読み書きの習得もとてもスムーズでした。このことは、その後の就労等の社会生活でも、筆談で聴者とのコミュニケーションが可能であることを意味しています。また、聴者と筆談以外のコミュニケーションが必要な場合、日本では、必要に応じて手話通訳も利用できます。是非、こういった日本の良い部分をミャンマーのろうコミュニティに紹介したいと思います。 来日の目的について   ミャンマー手話は、ミャンマー語に比べて語彙数が少ないと感じていました。手話でも音声言語同等の表現ができるように手話の語彙を拡充し、本にまとめたいと考えました。そして、日本での手話教授法を学び、より良い指導法で、ろう児にミャンマー手話が教えられるようになりたいと思いました。また、成人ろう者の書記ミャンマー語の習得についても、日本におけるその方法を学び、ミャンマーで活かしたいと思いました。  この3点は非常に重要であり、これらを日本で学びたいと考え、来日しました。 日本で学んだこと   デフネットワークかごしまでは、3つの事業について知ることができました。  1つめは、デフキッズという放課後デイサービス事業です。この事業は、学校が終わってから、仕事をしている両親が帰宅するまでの間、一人になってしまうろう児のための居場所づくりの活動です。ここでは、ろう児が分かるような形でしっかりと情報が提供され、様々な活動を通して社会のルールやマナーを身に付ける場にもなっていました。  ミャンマーでも、同様の環境に置かれたろう児がいますが、デフキッズのような情報提供の方法が取られ、社会のルール等を教えてもらえる場はありません。このような場の必要性も、是非、ミャンマーのろう学校やコミュニティに報告したいです。  2つめは、ぶどうの木という高齢のろう者や知的の重複障がいをもつ人々の就労事業です。家族の世話になるだけではなく、ろう者自身が、販売する手芸品を作ったり、箱の組み立ての作業をしたり、就労によって賃金を得ることができる場です。また、作業をしながらろう者同士で交流が図られていて、非常に良いと感じました。ミャンマーでは、高齢のろう者は家に引きこもりがちです。このような就労の場はありません。このような場所も、是非、ミャンマーに作っていきたいです。  3つめは、ワッフルの製造販売をしている、さつまワッフルです。ろう者、聴者が共に働く場となっていました。作業工程は、見て分かるように写真で示されていました。ろうのスタッフも接客に対応できるような仕組みづくりがされていて、来客はライトの点滅で知ることができました。お客さんとのやり取りは、メニュー表の指さしで行っていました。  このような工夫があれば、ろう者でも就労し、自立することは可能だと感じました。是非、このような就労の場も作っていきたいと思います。  日本ASL協会では、手話によるプレゼンテーションスキルについて学びました。分かりやすい伝え方や話し方の技術は、その後、研修で訪問した先々で自己紹介等のお話をさせていただく機会を得た際に非常に役に立ちました。  このような手話でのプレゼンを学べる場は、ミャンマーにはありません。しかし、ろう者が自信を持って自分の考えや意見を述べるためには、こういった力も養っていく必要があると感じました。私も機会を得た際には、しっかりと自分の考えや意見が伝えらるように技術を磨いていきたいです。  聴覚障害者協会は、埼玉と福岡の2ヵ所で研修させてもらいました。  各協会では、手話講習会や手話検定が実施されています。社会人や学生、主婦などが手話を学び、その後、手話通訳として登録し、病院などでの通訳として活動しているそうです。  ミャンマーには、こういった手話講習会も、手話通訳登録の制度もありません。ろう者は、病院での医師からの説明が分からずに、苦労することがあります。  また、ろう協の活動には、多くの高齢のろう者も参加していました。ミャンマーの高齢のろう者の活動の場という意味でも、日本各地の聴覚障害者協会の活動は参考になると感じました。  明晴学園では、ろう児の母語となる日本手話を第一言語として、書記日本語は、第二言語として学ぶというバイリンガル教育が実施されていました。  ミャンマーのろう学校の問題の1つに、学校内で手話が用いられる場面が非常に少なく、ろう児の手話の習熟度の低さがあります。  明晴学園では、母語である日本手話をしっかりと身につけることで、その後の書記日本語やその他の教科の学習が円滑に行えていることが分かりました。このような教育方針は、非常に良いと感じました。  また、明晴学園では、保護者に日本手話を学ぶ場を提供していて、非常に素晴らしいと感じました。保護者が日本手話を学び、習得することで、家庭内で手話によるコミュニケーションや情報提供が可能になります。ミャンマーには、このような保護者が手話を学べる場はないので、取り組んでいきたいと思いました。  筑波技術大学は、ろう者の大学です。ろうの学生たちが全国から集まり、様々な分野で学んでいます。中でも興味深かったのが、手話の習得に関する研究です。聴者の手話習得についての研究では、その結果を手話通訳者の養成に活かせるような分析が進められていました。  ミャンマーには、ろう者に特化した大学はなく、ろうの学生が集まる場もありません。ろう者同士が手話について議論をする場もないため、手話についての調査・研究の実施が困難な状況にあります。  日本で様々な知識を得たことで、ミャンマーのろう教育の課題が明確になりました。  日本では、テレビのニュース等で情報保障が当然のようにありますが、ミャンマーにはありません。ミャンマーでは、病院に手話通訳者が同行することもなければ、ろう学校内では先生と話が通じないことも日常茶飯事です。法的な場での手話通訳も認められていないなど、ミャンマーのろう者にとっては、クリアしなければならない問題や課題が山積しています。  また、ミャンマーでは、障がい者団体間での連携、協力がほとんど見られません。日本では、各障がい者団体が必要に応じて、非常に良い連携を取っていると感じました。こういった部分も、ミャンマーは日本を見習って行くべきだと思います。 最後に   日本では、色々な研修で知識を得ただけでなく、沢山の思い出を作ることができました。  ミャンマーでは、ろうの友人同士で旅行に行くという経験はほとんどありませんでした。家族での旅行は、もちろん楽しいのですが、やはりコミュニケーションが思うように取れず、少し寂しい思いをすることもありました。しかし、日本で初めてろうの友人たちと観光に出掛け、色々なものを一緒に見て、手話で分かち合うことができました。それは、とても楽しい時間で、一生の宝物となりました。  花や銀杏並木のような綺麗な景色をたくさん見て、美味しい物を沢山食べました。日本食といえば寿司を思い浮かべる方が多いと思いますが、私の場合は、ウナギです。私が食べたウナギは絶品でした。  ミャンマーに帰国後は、ミャンマー手話を教える技術をより磨き、ろう児に適した方法で指導して行きたいと思っています。  また、ミャンマー手話が、ミャンマー語と同等の言語となるように、手話の語彙の拡充を図り、それを本にまとめたいと考えています。  日本での研修でお世話になったダスキン愛の輪基金の皆さま、日本障害者リハビリテーション協会、戸山サンライズの皆さま、また、研修でお世話になった全ての皆さまに感謝いたします。本当にありがとうございました。 すべてが可能になる:ろう者コミュニティ バスティアン・コーララゲ・ディルシャン・カヴィンダ・ロドリゴ スリランカ出身 31歳 聴覚障がい 研修目標 1.ろう者の地位向上と就労機会の創出 2.ろう児に対する教育支援 3.ろう協会の活動をより良いものにする方策 4.ろう者の人権擁護 はじめに:私が日本の研修に応募した理由  私はバスティアン・コーララゲ・ディルシャン・カヴィンダ・ロドリゴといいます。生まれたときから耳が聴こえませんでしたが、高等教育に在学中に、ろう者コミュニティの存在を知りました。このコミュニティにおけるコミュニケーションの方法と、社会でのコミュニケーションの方法はずいぶん違っていることを目の当たりにしました。  スリランカのような発展途上国では、ろう者のコミュニティの権利はあまり進んでいません。したがって、スリランカのろう者のコミュニティはコミュニケーション、就労、権利、高等教育、生活環境などで多くの障壁に直面しています。このため、そして私自身ろう者であるため、私はろう者コミュニティの発展に尽力しました。2013年に、活動メンバーとしてガンパハ地区の聴覚障害者協会のサポートを始めました。2014年に協会の人たちはスリランカの言語であるシンハラ語の知識のある私をガンパハ地区聴覚障害者協会の事務局長にすることに決め、それ以来、この職を務めています。  2015年からは、スリランカの聴覚障がい者コミュニティを発展させるため日本でもっと知識や経験を積もうと、4度にわたりダスキンリーダーシップ研修の参加に応募を続け、幸いなことに2019年、第22期の研修生として参加できることが決まりました。  この機会を通して、4つのことを経験し、知識を得たいと思っていました。ろう者の就労、ろう者のための教育、ろう団体の機能、そしてろう者の人権です。研修を始めるまでに長くかかってしまったこと  第22期生に選ばれたものの、コロナのパンデミックのせいで、研修は1年遅れることになってしまいました。2021年からは、日本語の基礎と日本手話のレッスンがZoomで行なわれました。オンラインで学習を開始した日本語や日本手話は、来日後の研修でのコミュニケーションに役立ちました。  そして2022年4月23日、ついに、コロナウイルスの厳しい制限や規制下ではありましたが、日本に来ることができました。日本に到着し、隔離期間が終わってからは、先生と対面での日本語と日本手話の授業、そしてグループ研修が始まりました。グループ研修では、結束、ポジティブ思考、障がい者として困難にどのように立ち向かうかなどの知識と経験を得ました。 研修プログラムで得た経験と知識  研修の間訪れた施設では、高齢のろう者のお手伝いをしました。スリランカでは、高齢になったろう者には選択肢がなく、家にいるしかありません。このような施設がスリランカにも間違いなく必要だと感じました。  同様に、知的と聴覚の重複障がいのある人たちの日々の生活やケアの援助ができる施設も必要だと痛烈に感じました。  また、ろう者に対する情報を提供している施設や、手話通訳者の育成についても学びました。  日本では、多くのろう者が自営業を営んでいます。日本で見た自営業の方法をスリランカのろう者にも共有したいと思いました。  日本には、ろう者、聴覚障がい者のための大学もあります。ここでは、学生が必要かつ適切な情報がどのように提供されているかを見学しました。  日本のろう学校や放課後デイサービスでは、ろうの子供たちの学習をサポートするための、視覚情報をたくさん使った学習指導方法も見学しました。スリランカでは見たことのないものでした。  日本では多くのことを見て、多くの気づきがありました。スリランカでもプロジェクトとしていくつかを実施したいと思います。 日本の環境で感じたこと  日本に来てからは、障がい者のための公共の設備がとても多く、日本の人たちも親切でフレンドリーであると感じました。  日本人は国民性として物事を細かくまた正確に徹底し、時間をきっちり守ることが身についています。このおかげで学生のしつけが行き届いてきちんとしていると感じました。  また、環境をきれいにすることについて熱心なため、ルールが徹底され、道路や公共交通機関がきれいなのだとも感じました。 スリランカに戻ってからの将来目標とビジョン  ろう者にとっての就労機会は会社で働くことだけでなく、自営への取り組みも考えられるべきだと確信を持ちました。  ろうの子供たちを対象にした教育も、ろう者と健聴者のギャップをなくすために変えていかなければならないと感じ、そうした活動を支えていきたいと感じました。  また、ろうのコミュニティ自体も活性化させ、ろう者の権利運動などを通じて、意識向上に努めていかなければと思います。  スリランカのガンパハ地区聴覚障害者協会の一員として、日本の研修で学んだことを協会で活かしていきたいと思います。  日本で一番興味深かった経験は、兵庫で、ろう者が手話の知識を社会に広めようと自分で一から考えて始めたカフェでした。  スリランカに戻ったら「You with Deaf Us (あなたとろう者と共に)」と名付けてカフェを始めたいと思います。そうすることでスリランカの聴覚障がい者の就労機会が広がれば、と考えています。  その計画が成功したら、10年目くらいを目処に成人のろう者を対象としたケアセンターを開設したいと思っています。 最後に  ダスキンのプログラムには4回応募しましたが、幸い年齢制限で応募資格を失う前に第22期の研修生としてスリランカを代表して参加することができました。これまで努力することで成功を収めてきたので、ろう者のコミュニティのために将来私が努力すれば達成できると信じています。日本の人たちの生活からは、献身的に努力すればなんでも克服できるのだと学びました。 謝辞  日本に来るというこれまでの人生で最も大切な経験をさせていただいたダスキン愛の輪基金、私を日本で指導してくださった先生方やろうのリーダーの皆さん、日本障害者リハビリテーション協会の那須さんをはじめとする皆様、戸山サンライズのスタッフの皆様すべてに御礼を申し上げます。皆様がまた次のダスキンの研修生たちにとっても大きな力になりますように。 フィリピンの障がい者のために変化をもたらしたい ジャスミン・センテアノ・アンビオン フィリピン出身 31歳 視覚障がい 研修目標 1.障がい者雇用について 2.公的な場で話すスピーチスキル 3.アクセシビリティ 4.企画書を書くためのライティングスキル  私がダスキンリーダーシップ研修で学んだ最も大切なことは、成長と自己発見です。研修では生涯忘れることのないであろう体験と学び、そして障がい者コミュニティのよりよいリーダーとなるための体験と学びを得ることができました。  コロナウイルス蔓延のため、私たちの研修は2年ほども延期になりました。私たちが日本に来る前にオンラインで日本語を学ぶ初の研修生となったのはこれが理由です。先生方から教えていただき、先生方と知り合うことは楽しかったのですが、研修自体がパンデミックのせいで中止になってしまうのではと、心配でたまりませんでした。なので、2022年4月にようやく日本に行けることになって、大きな安堵を覚えました。  飛行機から降りて一番先に目についたのは、点字ブロックがそこかしこにあることでした。目が見えない私としては一人で移動するのに助かるので、大変嬉しくなりました。信号も音が鳴り、ほとんどすべてのエレベーターも何階なのか教えてくれ、ボタンのころには点字も書いてあります。電車の駅でも、いずれも視覚障がい者や車いす利用者を支援する仕組みが採られていて感銘を受けました。どこの駅でも駅員たちが障がい者をサポートしてくれました。  東京での最初の月の研修は、日本語、日本語の点字、オリエンテーションと歩行訓練でした。自分一人で初めて駅まで行けたときにはとても開放感を得ました。その後は、グループ研修となりました。  グループ研修では、障害者権利条約のほか、日本で行なわれてきたさまざまな障がい者運動、また障がい者を支援する福祉制度について学びました。また、日本におけるさまざまな障がいの過去と現在の状況、そうした人たちに対する支援活動の状況、課題解決がどのように行なわれてきたかも学びました。また、日本の障がい者の就労、教育、さまざまな法律についても学び、研修生みんなで東京の国立競技場など、さまざまなバリアフリー施設を見学しました。  日本政府が提供しているさまざまな医療的・経済的支援について学ぶのも大変興味深い経験でした。日本では障がい者は無料で介助者の助けを得たり、毎月決まった時間数で無料のサポートサービスを受けたりできます。こうした支援によって障がい者の自立生活が可能になっています。グループ研修では視覚障がい以外にもさまざまな障がいについて学ぶことができたので有意義でした。また、研修を受けているうちに、どれだけ強く自分がフィリピンの障がい者のために変化をもたらしたいと思っているかにも気づきました。フィリピンの障がい者も日本のような支援を政府やいろいろな人から受けられるようになれば、と思います。  グループ研修では、研修以外の場でも東京の人たちとお友達になることができました。例えばアキレス・インターナショナル・ジャパンやバンバンなどランニンググループの活動に参加して、ほとんど毎週末、目の見える人とパートナーを組んで走ったり歩いたりする練習会に参加しました。また、初めてブラインド・ヨガも体験してみました。フィリピンでは視覚障がい者のためのこうした活動はありませんから、こういった経験をできて大変嬉しかったです。  7月になって個別研修が始まると、いろいろな団体を尋ねたり、さまざまな場所に行ったりすることになりました。研修計画の主眼は、障がい者の就労、アクセシビリティ、インクルージョンでした。最初の個別研修は支援技術開発機構(ATDO)で行なわれ、アクセシブルな図書の重要性や、自分でDAISY図書を作成する方法などを学びました。また、障害平等研修にも参加し、障がい者のインクルージョンに有効なファシリテーションの技術について学びました。フィリピンで障がい者に対する意識向上活動をしたいと思っているのでとても有用なスキルでした。  その後、東京およびその周辺で視覚障がい者の就労支援をしている団体を訪問しました。また、NHKも訪問し、視覚障がいのあるジャーナリストや、人事部スタッフを紹介していただき、NHKで行なわれているインクルージョン活動、なかでも障がい者の就労やアクセシビリティについて説明を受けました。日本はしっかりした障害者支援制度があります。しかし、個別研修の中で、日本でも障がい者にとって仕事に就き、また仕事を維持するのは大きな課題であると学びました。このため、NHKでインクルージョンのための活動が続いていると聞いたことは新鮮に感じました。  東京以外で訪れた最初の団体は、大阪の日本ライトハウスでした。ここでは点字やオーディオ図書の製作、図書館システム、盲導犬について多くを学びました。日本における障がい者として、ご自身の就労体験についてスタッフの方のお話を聞く機会もありました。また、日本ライトハウスの視覚障害者リハビリテーションセンターで行なっているICT研修や就労支援についても学びました。また、国立民族学博物館では、視覚障がい者が展示品に触ってイマーシブ経験ができる仕組みを見学しました。最後に、お盆の時期、京都でホームステイをし、織物や焼き物作りを体験しました。  大阪では生まれて初めてホテルのレストランに一人で行き朝ごはんを食べました。コンビニに行って自分の食べ物を一人で買ったのも、研修の場所である日本ライトハウスに一人で行くのも、すべて初めての体験でした。クラブの人たちと出かけてタンデム自転車に乗るのも初めてでした。多くの人にとってこういうことは毎日する、ごく普通の体験だと思いますが、私にとっては普通のことではありません。こういう小さいことを達成したとき私が感じた自由と幸せは、生涯忘れることがないでしょう。自分にそういうことをする勇気があったのだと気付いたことも、嬉しかったです。  京都のゆにでは、聴覚障がい者向けサービス、なかでもキャプションについて学びました。また、大学を訪れ、さまざまな障がい者支援活動について学びました。その翌月は、大阪の夢宙センターに行き、自立生活について多くを学び、さまざまな肢体不自由の人たちと一緒に過ごすことができました。彼らからは、自分ができないことを人にしてくださいとお願いすることは、自分が自立していないということではないのだと、教えてもらいました。助けをお願いすることは恥ではなく、それによって人は自分を判断することもない、そして自分をいつも完璧に見せて社会に受け入れてもらう必要もないのだ、と教わりました。夢宙センターでは誰もが自分らしく過ごし、障がいがあっても楽しく充実して暮らしていました。このことは、自国に持ち帰りたいことの一つです。  個別研修の最後の場所は静岡県でした。ウイズで、重複障がいのある人たちの就労支援について二週間、学びました。障がい者が効率よく働けるように、いろいろな道具が使われていました。私も土産品の包装や、電子部品のカウント、点字の名刺作りなどを体験しました。大変良いプログラムでしたので、フィリピンにも同じことがあればよいのにと感じました。  11月、個別研修の終了後は、東京に戻って再びグループ研修に参加しました。行動計画の作り方について学びましたが、自分たちの目標の進捗をモニタリングするのにとても良いと思いました。また、有効なプロジェクトの企画書の作成方法についての授業にも皆で参加しました。私たち研修生のほとんどがそれぞれ自国に帰ったのちプロジェクトを始めようと考えていたので、とても重要な学びでした。また、日本財団も訪問し、そこで実施している素晴らしいプログラムについても教わりました。最後は、東京で私たちがプレゼンテーションを行なうことになりました。15分、日本語でプレゼンしなければならないうえ、日本語の点字を速く読むことができないためすべて暗記しなければならず、このうえなく緊張しました。ちゃんとプレゼンができたときにはとてもいい気分になりました。  研修で訪れたさまざまな場所、参加した研修、そしてその道筋で出会った多くの人たちは、心からいつまでも消えることがないでしょう。ダスキン愛の輪基金、日本障害者リハビリテーション協会、そして研修の間私の面倒を見てくださった団体のすべての皆さんに、感謝してもしきれません。 人生の分岐点 ウェン・ルウット カンボジア出身 28歳 肢体不自由 研修目標 1.バリアフリー 2.地域で暮らす障がい者をサポートする方法 3.団体運営とマネジメント 4.障がい者の権利擁護  私の名前はウェン・ルウットです。生まれは、カンボジア北東部のバッタンバン州です。  ダスキンリーダーシップ研修の正式な研修生として選ばれたときの喜びは、言葉で言い表せません。単なる満足感ではありませんでした。  私の研修は2020年9月初旬に始まって2021年6月半ばに終わる予定でした。しかし同時期に、世界は新型コロナウイルスのパンデミックに見舞われ、結果的に私は計画通り日本に行くことができなくなりました。  この結果、研修の第一ステップとして、Zoomのオンライン授業で日本語を習うことになりました。オンライン活動ではまったく日本の文化、食べ物、人々などについては分からない中で、言葉を学ばなければならないという状況でした。本レポートでは簡単に、日本での体験で自分がどのように変わったかを説明したいと思います。  研修生はそれぞれいろいろな国から来ていました。カヴィンダ、ウイ、ゾー、ジャスミン、そして私です。私の研修はまず一ヵ月日本語を習うところから始まりました。日本語の授業では、新しい文化だけでなく、新しいコミュニケーションの方法を学ぶことになりました。  また、研修生は全員、日本の障がい者を対象にした社会サービス制度および、リーダーになるためのソフトスキルについてのグループ研修をたくさん受けました。大変多くを学び、日本の状況をカンボジアと比較して考えることができるようになりました。  もう一つ私がグループ研修で学び理解したいと思っていたのは、非営利団体(NPO)の運営と、プロジェクトの企画書の書き方です。この2つは組織を立ち上げ、上手く持続して運営していくために非常に大切です。  これまでの研修で、プレゼンテーションのスキルをいろいろな行動や活動を通して学んだことによって、大勢の聴衆の面前で自信をもって大切な情報を伝えるにはどうしたらよいかが、わかるようになりました。  ヒューマンケア協会では自立生活プログラムについて学びました。最初は、自立生活とは何のことなのかさっぱり分かりませんでした。ヒューマンケアでの一番の研修はカウンセリングと自立生活プログラムでした。ヒューマンケアで初めて、自立生活プログラムのコンセプトについて学び、だんだん理解できるようになりました。  次の研修ではAJU自立の家を訪れました。わずか二週間の研修でしたがたくさん友人ができ、その人たちからいろいろなことを教わりました。彼らは私を車いすで行ける場所にたくさん連れていってくれました。  メインストリーム協会では2ヵ月を過ごしました。このほか自立生活夢宙センターや、自立支援センターぱあとなぁなどを訪れました。こうした自立生活センターでは、思っていたよりも多くのことを学びました。自立生活の学び手は、ただ制度として自立生活がどうなっているのか習ったり理解したりするだけでは不十分です。メインストリーム協会と自立支援センターぱあとなぁでは実地の体験をし、介助者のサポートを得てお風呂にも入りました。  メインストリーム協会のスタッフの皆さんとは興味深い、楽しい思い出がたくさんあります。皆さんとは関西の有名な観光スポットをいろいろ尋ねました。まもるさんとは神戸に旅しましたし、メインストリーム協会での私の研修のコーディネーターである平さんとは水族館に行って、いろいろな海の生物を見ました。  京都でもさまざまな自然溢れる場所に行きました。竹林や嵐山で、足を止めて風に揺れる竹の音に耳を傾けていると何とも気持ちが安らぎました。  メインストリームでは、カンボジア人は私だけではありませんでした。他にも4人カンボジア人がいて、メインストリームで勉強したり働いたりしていました。そして私を無条件にサポートしてくれました。私の日本語はまだまだつたなかったので、日本人の友人たちと話すときには彼らが助けてくれました。  日本ではカンボジアの食べ物を探すのは至難の業ですが、ここでも助けてくれたのはこの友人たちでした。祖国にいるかのように、カンボジアの食事を一緒に楽しみました。  自立生活夢宙センターと自立支援センターぱあとなぁに居たのはほんのちょっとの間ですが、その間、いろいろな新しい場所に行きました。夢宙のメンバーの皆さんとは通天閣に行って、大阪名物の串カツを食べました。  ぱあとなぁでは、素晴らしい場所にいろいろ出かけて、メンバーの皆さんと楽しんださまざまな思い出があります。奈良公園に行ったりしましたが、鹿と遊んだり餌をやったりしたのも初めての経験でした。でもあんまりたくさん鹿が集まってきて取り囲まれたときにはとても怖かったです。  次に、ぱあとなぁの皆さんと一緒に、清里にある、盛上さん一家が経営するホテル「Lifequality Casa(ライフクオリティ カーザ)」に行きました。盛上さんとみんなでケーブルカーに乗りましたが、車いすユーザーにもアクセシブルなケーブルカーに乗ったのは初めてでした。山へ向かう景色は息を呑む素晴らしさでした。  カンボジアでは、日本のような車いすでも移動できる公共交通を使ったことはありませんでした。日本の公共交通は障がいのある人たちも移動しやすいように、そしてどこでも行きたいところに行けるように設計されています。  日本では車いす昇降式リフトのついたトラックから、スロープのついた乗降口のあるタクシー、そして車いすを置くスペースがあるバスや電車、新幹線までありとあらゆる乗り物に乗りました。  日本ではほとんどの場所に車いすでも行くことができ、どっちに行ったらいいかもとても分かりやすくなっています。たとえば、ほとんどの建物や公共施設にはエレベーターやスロープがあるので移動しやすいです。また、すべてのビルに障がい者用の多目的トイレもあります。  自立生活コンセプトの大切な要素のひとつに、障がいのある人たちが自分で自分のことにかかわる決断を下し、下した決断については自分が責任を取るという考え方があります。  研修では障がい者に対しどうやって特別な支援をすれば、障がい者がフルに社会参画できるかのスキルや方法をたくさん学びました。  障がいのある人たちのサポートは物理的な問題のサポートだけではありません。自立生活プログラムではピアカウンセリングのセミナーがあり、障がいのある人たちが自分の怖れていることをピア(仲間)と語り合い分かち合えるようになっていました。自信をつけ、自分を受け容れて、生活を改善していくための一つの策です。  日本では障がいのある人たちは頑張って闘って、障がい者に対する社会の見方を変えようとしています。自分たちの権利のために闘う彼らの声は本当にパワフルで、大切であると感じました。 メインストリーム協会ではたくさん友人ができ、それぞれの皆さんのお宅にも泊まらせていただきました。ご飯を作ってくださり、家族の一員として迎えてくださいました。ご自宅に伺ったおかげで、障がいのある人たちが日本ではどのように暮らしているかを見ることができました。  脳性まひ、脊髄損傷、筋ジストロフィーなどがある人たちが、何の心配もなく暮らしていました。  何人かの人たちは常に呼吸用の酸素を携えていました。また、口からは物を食べることができず、医療用の栄養を特別なストローで摂取している人もいました。  カンボジアに帰ったら近い将来、自立生活プログラムを作って日本で学んだ素晴らしいスキルや体験を実地に活かし、こうした活動も実施して私の地域の障がい者の生活を改善できると希望を持っています。  最後になりましたが、ダスキン愛の輪基金、日本障害者リハビリテーション協会の皆さん、素晴らしいプログラムをありがとうございました。おかげで私は日本で学び、暮らすことができました。また、自国でどのように自立生活プログラムを始めたらよいのかを教えてくださり、ありがとうございました。  私を歓迎し、皆さんの一員として迎えてくださった数々の自立生活センターの皆さん、ありがとうございました。必要なスキルをすべて紹介し、教えていただきました。新しいことにチャレンジすること、おもしろいと思った場所へ行くことを教えていただき、おいしい食べ物を楽しむ機会を与えていただきました。  日本語の先生方、忍耐強く、最高の教え方で教えてくださいました。先生方のおかげで、日本語で人と話すことができるようになり、日本での暮らしが楽になりました。  日本障害者リハビリテーション協会のスタッフの皆さん、我々研修生の面倒を見てくださり、ありがとうございました。事前にいつも正確な研修のスケジュールを教えていただき、片時も休まず無条件にサポートしてくださいました。  第22期の同期研修生の友人たちとは、忘れ難い思い出がたくさんでき、研修中一緒に多くの時を過ごしました。  私たちはそれぞれ違う文化や常識の国から来ていますが、研修の間はいつも仲良く楽しく過ごすことができました。皆さんのこれからの道のりが良いものとなりますように、そして学んだスキルや体験を持ち帰って、それぞれの社会の障がいのある人たちのために活かしていきましょう。 私にとっての「不可能」が当たり前になるように マウディタ・ゾブリタニア インドネシア出身 25歳 肢体不自由 研修目標 1.障がい者に対するバリアフリー 2.障がい者福祉サービス 3.手話などのコミュニケーション方法 4.障がい者雇用 5.女性障がい者のエンパワーメント  ダスキンリーダーシップ研修の受け入れが決定したという通知を受け取ったのは2020年半ばでした。私は障がい者の就労、障がい者を対象とした福祉制度にかかわる課題や、バリアフリー設計の支援ツール、障がい者の女性に対する視点、またユニバーサルデザインの原則と実施に強い興味があります。日本でこのようなことを学び、学んだことを自分自身のため、そして私のコミュニティのために活かせるようになれば、と考えていました。  しかし、パンデミックが起きてしまい、私はまず、オンラインで一年間日本語を学ばなければなりませんでした。私は日本文学を学ぶ学生でもあるので、自分の言語スキルを磨くうえでは願ってもない機会でした。また、手話にも大変興味があるので、手話のクラスにも参加しました。日本に住む外国人ろう者向けの日本語クラスにも参加しました。  私と先生、他の参加者の皆さんはお互い何千キロも離れたところからの参加でしたが、それにもかかわらず日本文化、日本語の表現、また、日本語を教える新しいメソッドやアプローチについても多くを学ぶことができました。このようなオンラインという形でさえこれだけ勉強になったので、実際日本を訪れて本物の日本での生活を経験したらどれだけ学ぶことになるのか想像すらできません。  …と思っていた矢先、2022年4月にようやくそのチャンスは訪れました。  日本に到着して間もなく、他の四人の研修生を紹介されました。フィリピンから来たジャスミン、スリランカから来たカヴィンダ、カンボジアから来たウェン、そしてミャンマーから来たウイです。彼らのおかげで、そして彼らのそれぞれのキャラクターのおかげで、私にとってグループ研修はとても楽しいものとなりました。いまだに、私の誕生日にケーキやお花でサプライズをしてくれたことを鮮明に覚えています。私たちは共に、日本の障がい者問題の専門家によるグループ研修を受け、こうした専門家の人たちの活動やプログラムについて学びました。  ダスキンのリーダーシップ研修では個別研修もあり、私の場合は自分の目標を達成する支えになるであろういろいろなことを学びました。最初に、ATDO(支援技術開発機構)で、視覚障がい者のためのアクセシブルな図書の提供方法を学びました。また、障害平等研修にも参加し、ファシリテーターとしてのスキルを学びました。私にはコミュニケーションを生み出すためのプレゼンテーションスキルや、ファシリテーションスキルを磨く必要がありました。そうすれば、人々を勇気づけ、ファシリテートし、手助けすることができます。  それから、私がおそらく全く経験がないといえる分野は、障がい者の自立生活の概念です。私の人生において、自立することが必要でした。いかなる場合であれ、他の人に頼ることは弱さの表れであると思っていたので、人には頼れないと思っていました。他の人に頼ると、その人たちに私のことを憐れむ隙を与えてしまうと思っていました。  夢宙センターの人たちは、いろいろな知識や私とのかかわりを通じて、また理念に則って、自立するということは、必ずしもいつも一人でなんでもやらなければならない、ということではない、と教えてくださいました。他の人のサポートを受けながら物事を決断して、夢を実現してもいいのだと認識が変わりました。今日に至るまでずっとこの信条を自分のものにしようと努めています。また、センターの皆さんからは、仲間がいて、痛みや人生の困難を分かち合えることがどれだけ大切であるかも教わりました。  次の個人研修はNPOゆにで行なわれました。ゆにでは障がいのある学生のための充実したサポートプログラムが用意されています。ここでは直接、ミーティングや教室での授業でキャプションを付ける方法を学びました。聴覚障がい者および聴覚に障がいがあり、手話ができない人にとっては大変有用です。キャプションをつけるといった実用的なステップ一つとっても、どれだけ学生の学びの手助けになるか分かりません。また、私にとっては、教育プログラムにおいて障がい者を支援する枠組みの理解にもつながりました。  次にSTEPえどがわでは、障がい者のための防災訓練について学びました。防災とは、ただ「災害のリスクを減らすにはどうしたらいいか」などを教わるだけでなく、しっかり体系化されたシステムであることが分かりました。私の国でも特に障がい者にとって、災害が起きたときに必要なことができるように、防災の原則を普及させられるのではないかと思います。インドネシアが地理的にたくさん火山や断層を抱えていることを考えても防災の重要性は言うまでもないでしょう。  インドネシアの社会では、重度の障がいがある人は、ベッドや家の中にずっといなければならない「病人」として扱われます。STEPえどがわでは重度障がい者の人たちの外出支援の例として、外で新鮮な空気を吸って生活を楽しんでいるところを見せていただきました。インドネシアでどのように重度の障がい者の支援をするかについて考えさせられました。  次に、バリアフリーの技術について知識を深めるために、神奈川工科大学を二日間訪問しました。障がい者にとって、より生活しやすくするためのツールを提供することで、いかに彼らの技術的な知識を実践に移しているかに驚かされました。ここでは高齢者や障がい者の支援機器の研究をしている学生さんたちにも紹介していただいて、学生さんたちからは、どうやってこうした役立つ発明が生まれたのかを説明していただきました。素晴らしい訪問になりました。学生のためにバリアフリーの学習環境を作ろうと、膨大な努力をなさっているのを目の当たりにしました。  今思い出すのは、ある学生さんと会話していたとき、「障がいがあるけどあなたは普通に話せるんですね」と言われたことです。ほとんどの障がい者は意思疎通に問題はなくて、私のように普通に普段話しているので、そのようなことを言われて驚きました。学生の研究は障がい者のためのツール開発でしたが、実生活では学生さんたちが日々の生活で障がい者の人と接することがほとんどないのだということを知りました。  このことに気付いたのは良いことでした。なぜなら日本においてすら、社会全体において、障がい者の存在が見えにくいこと、そして交流があまりないとわかったからです。インドネシアで私は公立の学校に通いましたが、こういう学校には一般に、障がい者である私に包括的な支援が提供されることはありませんでした。学校に通っていた時期は合理的配慮がないために学習が進まないこともありましたが、いかに自分の存在を目に留めてもらい、健常者のためにできている社会に参加できるかを学んだ時期でした。  最終的に私が感じたのは、「コントロールされた環境」でほとんどの時間を過ごしてきた障がい者にとっては、大きな社会という環境に出ていくのが、ややもすると難しいということでした。バリアフリーやアクセシビリティについてはいろいろなイノベーションが進んではいるものの、こうした事実から、障がい者と健常者が調和して共に生きるにはどうしたらいいかについて、さらなる考察の必要性を感じます。  日本に暮らすチャンスを与えられたことは私にとって非常に感銘深く、また感謝すべきできごとでした。間違いなく、一人の人間としてより機能して生活することができた初めての経験だったからです。日本では、すべての人のために何もかもが設計されており、誰もがそうした仕組みの恩恵を受けられるようにできているように思います。日本では通勤もできますし、用事もこなせ、車いすを使って一人で買い物にも行けます。どこでもトイレを探すのに苦労しないとわかって安心していられる点も大きいです。  船に乗って旅をしたり、野球を見たりもしました。重度障がい者でも他の人の介助を受けて外出し、他の人と一緒に何かを楽しんだりできることを知りました。日本ではいろいろな場所に行けます。博物館や美術館にも行きました。いろいろな県も訪ね、富士山も非常に近くから見ることができました。公園に広がる秋の紅葉も楽しみました。ときには、近くのカフェやレストランでおいしいコーヒーを飲んだり食べ物を楽しんだりしました。  ここでわかることは、心構えももちろんとても大事ですが、障がい者の生活を容易にし、日本で私が感じたように、人としてより機能して生活するには、なんとしても物理的なバリアを減らさなくてはならないということです。自分が機能していると感じられれば自分のパワーになり、自信もつき、最終的には解放された気持ちにつながります。そしていったん解放されたら、可能性は無限大です。  この研修が終わったら、まず私は自分の進歩と研修プログラムについて、私の大学の障害センターに報告したいと思っています。私にとっても大学組織にとってもバリアフリーの状況について共に学ぶことが大切です。  次に、自分の旅路について文書にまとめ、アクセシブルな本にして、自分の経験や知識を人と分かち合いたいと思います。願わくば、この本が障がいのない人に、障がい者の生活がどういうものなのか、私たちへの理解を深めることにつながれば、と思っています。それだけでなく、二分脊椎についてのマニュアルを翻訳し、だれもが二分脊椎の人たちへの理解を深め、二分脊椎の人たちの生活がよりよいものになるよう協力していただけるようにしたいです。  また将来もしっかり築いて、良い仕事に就きたいと思っています。自分のことをあれこれと心配しなくて済むようになれば、もっとインドネシアの障がい者のために活動できるようになると思います。しかし、まずは自分の現時点の能力でできるところから進めたいと考えています。  それから、障がいのある人たちを対象にした英語クラスをもう一度始めたいと思います。前行なっていたプログラムも、今の自分の知識と経験があればもっとしっかりしたものにできると思います。また、障がいのある女性たちには、相談や情報交換を安全にできる場所が必要だと思います。こうした場所を私の習得したファシリテーションとプレゼンのスキルで作りたいと思います。  大学院では障害学、とくに障がい者と障がいのない人たちの関係について勉強したいと思っています。日本は物理的なバリアフリーでは先進的ですが、人と人の間のバリアフリーな関係についてはインドネシアも日本もそう進んでいないと感じました。  研修で出会った皆さんは、私が何かするに当たって絶対できると信じてくださっていました。そのおかげで私も自分はそれができると思うようになりました。自分の能力を信じてくれて、能力を疑ったり過小評価したりしないでくれる人がいれば、とても自信になり自尊心も取り戻すことができます。  日本では多くを学びました。年配のリーダーの人たちは障がい者の権利擁護と障がい者の生活支援に偉大な仕事をしてきています。私にとっての次なる宿題は、こうしたリーダーの人たちが行なってきた良い活動、そしてその原則を私の国でも実施することです。そうして、インドネシアの状況、バリア、課題、文化に見合った活動やプログラムを実施し参加していきたいです。  ダスキン愛の輪基金、そして人生を変えたこの経験に関わってくださったすべての団体の皆さんに感謝したいと思います。  多くの方はこの素晴らしい機会のために私が「不可能」を超えて努力してきたことを褒めてくださいました。  そうかもしれません。しかし、そもそもバリアがなければ、そんな苦労をせずに済んだと思います。  そして、インドネシアの障がいのある人たちが多くのバリアに突き当たることのないよう、尽力する思いでいます。「不可能」が当たり前の事になるように。そして、私たちの障がいが大したことでなくなる世界を作っていく一助とするために。